飯豊連峰 大石川西俣


《杁差への登山道は平坦》

 ダムサイトの駐車場に止まっているパジェロから降りた3人は、ザックを背負って歩き始めた。

 今午前5時、夕べ8時に本庄を出発してから一睡もしていないのに、3人とも快調な足どりであ

る。これから6〜7時間は歩きづめに歩いて、昼ごろまでには大熊小屋にたどり着きたい。ダム

左岸の道は滝倉沢まで舗装されていて、とても西俣の厳しさなど連想できない。橋の手前に登

山記録のノートが置いてあるので、中を見ると3日前に釣り師1人入山。 ‥‥が、既に昨日下

山している。

  『チャンス』『ラッキー』 3人は大はしゃぎ。橋を渡り終えると、そこからは本格的な登山道と

なり、西俣川ぞいに大熊小屋を経て、杁差(えぶりさし)岳へと続いている。道はだらだらの上り

下りを繰り返しながらも比較的平坦である。黒手沢あたりから、はるか、下方にゴルジュを望む

ことができる。   

 『こんなとこ、本当に川に降りられるんですか?』と素人。『大丈夫、小屋まで行けば道と川が

一緒になるから。』と私。

 こんな会話をしながら進んでいると、先頭を歩いている私の後方から突然『ギャーッ』。 振り

返ると素人が『 課長、今、へび踏むとこだったよ。』と言う。

 鉄人がすぐ草むらを足で払って確認すると「黒マムシ」だという。見ていない私はちっとも怖く

ない。絶対足もとは見ないようにしている。ゴルジュの中で1時間も歩くとザックの重さも気にな

りだし、少し休むことにする。 とタイミングがいいことに、水掛沢付近で一か所だけ道と川とが近

くなっているところを発見。わずか20メートルも降りると竿が出せる。もう我慢できない。ちょっと

様子が見たい。「休憩のつもりで釣るか。」 よせばいいのに・・・・・。

 三人がそれぞれ別れて釣りだすと、これが釣れる、釣れる。あっと言う間に7・8寸が5匹もで

た。今、自分が渡床した場所を流してもすぐ飛びついてくる。鉄人に「でたかい?」と声をかける

と「ええ、7・8寸が六つほど」。さすが西俣、来たかいがあった。このまま釣り上がることにする

が、やはりポイントごとに良型がでてくる。大物はでないがおもしろいように釣れる。もう三人は

夢中になって釣っている。しかし時間はどんどん経過していく。ほんの休息のつもりだったのにゴ

ルジュの中を大分進んでしまった。時間のロスを考えるともう引き返すことはできない。「上流の

ロボット小屋付近で、また林道に戻ればいいや。」 途中3メートルの滝がある。滝の直登も考え

られた。が両岸から岩がせりだし川幅が狭められて水勢がつよく、結局高まくことにした。トップ

で鉄人がクリアしザイルをおろす。続いて素人が登る。二人が登ったところでザックのピストン。

最後に私が登って行って何とビックリ。岩壁はもっと上までそそり立ち、先に登った二人は途中

の木に掴まっているだけだった。素人なんか恐ろしいことに木に掴まった状態でザックを三つも

抱えているではないか。ザックを置く場所もないような、垂直な岩壁の途中に生えた木に掴まっ

ての高まきとなってしまった。


             
      【疲れも出てそろそろ魚が】        【ゴルジュの中を軽快に進む】

《大熊小屋遥か》

 西俣ならこれぐらい当然だろう。」と遡行は続く。あいかわらず8寸岩魚が飛び付いてくる。

 「そろそろ昼メシ用をキープしようかね。」「一人三びきね。」なんて快調そのもの。でも林道に

出てから大熊小屋までの時間を考えると、そろそろ林道に戻りたい。両岸がとてつもなくきり立

った岩壁ではどうしようもない。ロボット小屋はまだ先か?

 イズダチ沢を過ぎると目の前を大岩がふさいでいる。岩に上って見るとその向こうは先程以上

に水勢がある滝。前も滝、後ろも滝でほんのすこしだけ「釣ってる場合かよ。」と思う。本当はこ

こで引き返し入渓点まで戻ればよかった。結局数時間後、高まいた滝に飛びこみ泳いで帰る事

になるのだから。

    
     【大渕を越して】                   【次の障害に向かう】

 よせばいいのに・・・・。我々三人はイズダチ沢から林道へのルートを選んだ。はるか高いとこ

ろに、林道と思える木立の切れ間が見える。 「こりゃ厳しいなアー。」と思ったが他にルートも

無いからしょうがないか。「なんとかなるだろう。」

 イズダチ沢に入っても8寸クラスが、人影を感じてはスーッ、スーッと走っている。本当に魚影

の濃い川だ。まだ三人とも「来てよかった」と思っている。短い距離で100メートルも登るのだか

ら、この沢の厳しさは「ハンパ」じゃない。2・3メートルから5メートルぐらいの滝が連続する。トッ

プで鉄人がクリアしザイルをおろすと何度も繰り返し、どのぐらい進んだろう。「ギョエーッ」我々の

選択は間違いでした。ゴメンナサイ。なんと三方が空も見えないほどにそそり立った岩壁にふさ

がれていて、沢は天から落ちて来るような滝になっているではないか。


《挑戦》

 全員が思わず「ウワァーッ」と声を発した。なんと沢はここで行き止まるかのように、天から落

ちる滝となって岩壁の奥へと消えている。この滝の下にもすばらしい釜があり、きっと大物がい

たことだろう。しかし、だれももうそんな余裕は無い。この先どうしたらいいんだ。林道まではま

だ6〜70メートルもあるにちがいない。最初の草つきこそまだ角度はゆるやかだが・・・。それ

でも75度はあるだろう。10メートルも上ると岩壁は完全に垂直である。装備は25メートルの6

mmザイル一本。リーダーとして私は「撤退」の決断をすべきだった。しかし、トップがクリアさえ

すればと考えていた。ゆるされない過ちである。

 鉄人がアタックを開始した。25キロもあるザックを背にしたまま・・・。25メートル付近まで上っ

た鉄人が、木にザイルをしばり下に降ろした。そしてさらに横にヘツりながらアタックを続けて行く。

続いて素人がザイルを頼りに上った。25メートル付近から素人も潅木(かんぼく⇒低い木)に掴

まりながらヘツりだした。しかし素人の右上方で鉄人は、支持点が見つからず完全に立ち往生し

ていた。下から声をかけると、「ダメだ」と言う様に首を振っているのが見えた。

  この時、上では鉄人が素人に「これ以上無理だから戻れ」と声をかけている。ザイルから相当

離れてしまった二人は、進むに進めず戻るに戻れない状況に陥ってしまった。それでも二人は

岩壁と懸命に戦っている。私は完全に行き場を失った二人を、下からただ見ているだけしかない。

実に苦しい時間が続いた。じっと耐える時間が続いた。私の頭の中では色々な想いがかけめぐ

った。最悪のケースも頭をよぎった。こうした状況が改善されようとしないまま続く。

 だがやっと状況が動き出した。再び鉄人が上りだし潅木帯の中に消えて行ったのである。一

方素人はヘツりながらザイルに戻ろうとしている。私は必死に声をかけた。「左の木に掴まれ!

」「木がしなるからザイルのところへ降りれるはずだ」などと・・・。やっとの思いでザイルにたどり

着いた素人は、何とか無事に戻ることができた。

 素人に鉄人は「何とか上りきる。」と言った。確かにあそこからでは戻る事は不可能だったろう。

 「鉄人なら大丈夫だ。やつならやってくれる。」私はそう信じていたが、しかし、目に見えない

状態が長く続くと不安は募る一方だ。下から二人で声をかけるが、ロケーションが悪すぎた。鉄

人からの声は滝の水音でかき消されてしまうのである。

《九死に一生》

 やりきれない時間が続く。いたたまれない時間が過ぎて行く。私は救助に向かう必要があるこ

とを想定し、素人の制止を振り切ってザイル回収に向かった。“行きはよいよい 帰りはこわい” 

帰りはザイルなしで、一つ一つ支持点を探しながらのフリークライム下降だった。どんなに危険

であろうと二次災害が起きようと、私にはそうしない訳にはいかないリーダーとしての責任のほ

かにもう一つの理由がある。それは平成4年の春、佐梨川のゴルジュを下降している際の出来

事だった。先に途中のテラスに降りた鉄人に続き私が降りて行くと、足をかけた木が突然折れて

しまった。滑落しだした私に鉄人は、自分も一緒に谷底に落ちる危険を冒し、抱きついて止めて

くれたのである。二人でテラスから谷底をのぞいて見ると、十数メートル下、岩盤の上を水がチョ

ロチョロと流れているだけだった。落ちていれば完全に命はなかった。鉄人の自分を捨てた行

動によって、私は今ここにいることができた。だから全知全能で彼の安全を確保しなければ・・・。

  この枝沢の狭いゴルジュの中では、いっぱいに後ろに下がってもせいぜい5メートル。後ろの

壁に背中がすぐついてしまい、途中の潅木帯に視野が遮られてしまう。上の様子は全く知ること

ができない。二人は懸命に声をそろえて呼びかけ、上の状況を知らせてもらおうとした。しかし・

・・。

 もうこの壁に鉄人がとりついてから30分も経過したろうか。突然「パンパンパパーン」と爆竹の

音が谷間に響きわたった。この音は何を意味するのか。「よし、救助に向かおう。」と私は決断し

た。この時私は不思議なほど落ち着いていた。「少なくても両手を使える状態であることだけは

確かだ。」と踏んだ。「どこか壁の途中で動けなくなっているのであれば、ザイル一本で救出でき

る。」と確信した。素人には今後のこと、私に事故があったらとにかく沢を下り、入渓点まで戻る

ように指示し壁にとりついた。

 先程ザイルを張ったルートから2〜30メートルも下ると、比較的壁の下のほうまで潅木が生え

ている場所がある。私は咄嗟にそのルートを選んだ。素人を踏み台にして最初の支持点を得る

と、あとは何とか3点を確保できそうである。岩壁を、また潅木の中を懸命に上った。1秒をあら

そうように。この時の私の素早さを、後日素人が笑いながら話す。「あの時の早さは普段会社で

モタモタしている師匠からは考えられない。」と。途中枝が折れて落下しそうになったり、支持点

がなく木から木へと飛び移ったりと・・・。40メートルも上ったろうか。鉄人の声が聞こえだした。

なる程、もう滝の音は大分小さくなっている。また進むともうはっきりと言葉が判った。

 「大丈夫だからそれ以上来ないでください。」と鉄人。「上についたのか?」「林道にでたのか

?」

 「でました。大丈夫です。」「わかった。じゃ素人さんをつれて戻るから入渓点で会おう。」

《撤退》

 下から素人が呼びかけている。「鉄人さんが上に見えます。大丈夫そうだから降りてください。」

 「わかった。いま降りて行く。」と返事をしたが、どうも聞こえないらしい。何度も何度も呼びかけ

てくる。私は慎重に下降しだした。上りは二回も枝がおれた。まったく肝を冷やしたが、下りはも

うゆっくりでいいのだ。潅木帯をぬけるとあと10メートル程だ。素人が私をみつけてホッとした

顔をしている。最後の壁はより慎重に支持点を探した。ここまで来て落ちたくはない。「10メート

ル」はこんなに恐怖心が沸かないものなのだろうか。「さっきの高さに比べればなんてことはな

い。」とつい思ってしまう。下に降りると確かに鉄人が見える。なんて逞しい男なんだ。林道から

手を振る鉄人を見て私は一気にひざの力が抜けていくような気がしたが、気持ちを奮い立たせ

おもいっきり手を振ってこたえた。

  まだこれからなのだ。沢を下って安全に帰らなければ。二人は歩きだした。小さいながらザイ

ルを引っかけるところもないゴルジュの中の滝は、本当にやっかいだった。まず私がザイルを確

保して素人をおろし、その後私がフリーでおりる。これをいくつ繰り返したろうか。本流に出ても

高まいた滝がある。でももう高まきはゴメンだ。力も残っていない。素人に「泳ぐぞ」と話し、ザッ

クを釜にほうり込ませ飛び込ませた。冷たい流れはむしろ我々に「渇」をいれてくれた。

  入渓点では鉄人がすでに汗でグッショリの衣服を脱ぎ捨て、我々の到着を待っていてくれた。

鉄人の無事な姿が目にはいったとき、思わず目頭が熱くなる自分を感じた。無事であることはす

でに確認していたのに・・・。私は釜の泳ぎで濡れてしまったタバコを握り潰し、新しいタバコをザ

ックの中からとりだして火をつけた。長い間タバコを吸うことを忘れていた。私が吐き出した煙り

は、青空の中にゆったりと揺れながら消えて行った。

       
   【緊張から開放され一気にお腹も空く】  【10年程後、イズダチ沢を感慨深く望む鉄人】

《エピローグ》
  岩壁を上って行った鉄人に、大自然は本当に厳しい試練を課した。途中で自分を落ち着かせ

ようと、二回も歌を歌ったという。林道に出る手前では、壁は垂直どころかオーバーハング。絶

対絶命の時、信じられないことに岩壁の真ん中に一本の木の根が出ていた。このわずかな大

自然のいたずらが彼を救った。岩を砕いても根を伸ばす樹木の生命力・・・。なんと逞しい営み

だ。大自然が課した苛酷な試練から、したたかな自然の営みが鉄人を救った。やはり人間は大

自然の中では一つの生命体にしかすぎないのだ。自然を征服しようとするなんておこがましい。

むしろ大自然に翻弄されながら生きていかなければならないのだと実感した一日だった。また

帰ることができた。

 帰してくれてありがとう。
                    
                        【西俣に沿って登山道】


                釣 行 者   素人・鉄人・師匠 
                 釣 行 日      平成7年 6月30日
                 交通ルート   新潟県荒川村からR113を小国に向い
                           越後下関駅を過ぎて大石川手前を右折する
                                  (大石ダム方向へ・・・看板あり)
                 地 形 図   杁差岳 二万五千分の一
                            安 角       


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