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旅あれこれ シリーズ4【現存十二天守を巡る《Ⅱ》】

現存十二天守を巡る《Ⅱ》

現存十二天守を巡る《Ⅱ》

青空に白く浮かんでいるお城を見ると、ついついお金を払ってでも登ってみたくなります。

観光地と言われるところに行くと、お城風のものが必ずと言っていいほど観光資源として存在します。みんな立派なお城に見えますが、それぞれ歴史的価値・建築物としての価値は全く違います。

徳川幕府が崩壊した時点で日本全国の城郭は186ありました。しかし明治政府の政策もあって多くの天守がうしなわれました。

やっと昭和4年の【国宝保存法】のおかげで22の城郭が国宝の指定を受け保存が図られました。

天守が国宝指定を受けたのは18城でしたが、これらの城郭のうち名古屋城、大垣城、和歌山城など6城が戦火で焼失し、また松前城は火災で焼失してしまいました。

今、日本に現存天守閣(作られた当時のものがそのままのこっている) は12城しかありません。

長野の上田城のように櫓だけが残っているものもありますが、そのほかのものは後世になってからコンクリートなどで作られたもので、いわゆるお城風・・・のものに過ぎません。

その中でも縄張りなどを確り確認し当時のものを復元したものを【復元天守・・・会津若松城、小田原城、名古屋城、大阪城など07現在32城】、こうだったのでは・・・と想像で作られたものを【模擬天守・・・洲本城、富山城、勝山城など07現在30城ほどと思うが定かではない】と呼んでいます。

私が目指している12の城とは北から弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城・備中松山城・松江城・丸亀城・伊予松山城・宇和島城・高知城です。【赤字は未登城】国宝は松本・犬山・彦根・姫路の4城、その他は重要文化財として、そして姫路城だけは世界文化遺産に登録されています。

【備中松山城】 岡山県高梁市 登城日 08.6.15
岩盤の上に石垣
白と黒のコントラスト
ここまで来るだけでヘトヘト
炉は全国的に珍しい

臥牛山と呼ばれる4つの峰からなる一体全域を利用して築城されている。2重2階の天守が現存する山城としては日本随一を誇っている。天守のほかニ重櫓・土塀が現存している。

全国レベルと思われるものが他にもある。岩盤の上に組まれた石垣(毎年京都大がズレを調査している)、天守閣には囲炉裏がある。戦の経験から作られたと考えられる。黒い板は縦に使われているのも珍しい。白と黒の配色は美術的にも高く評価されている。

毛利元就が足利義昭を擁して上洛しようとした際、信長は当時毛利家家臣三村氏に本領安堵を約し毛利に敵対させた。

砦二十一丸を築いて抵抗したと記録にある。これが有名な【備中兵乱】で毛利軍八万に囲まれ三村氏は滅んだ。実際には毛利と手を結んだ宇喜田秀家に対する遺恨であるといわれている。

また藩主板倉氏は幕府最後の筆頭老中を務め鳥羽伏見の戦い以降賊軍とされたため、多くの悲運を味わった。藩士は函館まで戦い続けた。僅かだが武家屋敷もいい雰囲気で保存される。

ここまで上ると息が切れとても敵と戦う力など残っていなかった。本当に歴史的にも、見るべき価値としてもいい城であった。私の中でトップを競う城。

【松江城】 島根県松江市 登城日 08.6.14
お堀が囲む
宍道湖が望める天守
松本などと近い古いタイプ

現在【堀川遊覧】と言われる観光企画が示すように回りをお堀が囲む浮島の中にあるような平城。

本来豊臣の家臣であった堀尾吉晴は関ヶ原の戦功で既に滅んでいた尼子氏の月山冨田城を論功で拝領したが、富田城は急峻な山の上にあり戦略上の理由から松江に築城した。

堀尾氏三代の後、京極氏、結城秀康の三男、松平直政が城主となり10代続いた。

結城秀康は承知の通り家康の次男で越前松平家の宗主である。多くの逸話が伝わる武勇に優れた将として知られる。秀吉の人質として過ごしたが実際は信頼で結ばれ、徳川が豊臣家を攻めるときは大阪方に付くと豪語していた。

生きていれば関ヶ原の情勢は大きく変わっていたと思われる。息子直政も真田丸を攻めた武功は良く知られている。

造りとしては5層6階の天守に櫓を配した複合天守で桃山様式となっている。また彦根のような白壁が少なく厚い板で覆う古い様式である。

石も大きい部分を奥側にする牛蒡積みで曲線などの無い古い様式である。日本三大湖城、桜の名所百選などに選ばれている。

【高知城】 高知県高知市 登城日 95.10
天守
追手門

高知市街の中央にある典型的な平山城。1601年土佐に入国したご存知山内一豊によって築城が開始され、10年後には三の丸まで完成した。

後に高智山と改名したが、これが高知の始まり。4重6階の天守は重要文化財に指定されており、望楼型の典型である。

もともと長宗我部元親によって築城されたが、僅か3年で浦戸城に移った。このため一豊が築くまで使われていなかった。

維新まで代々山内家の居城とされ、多くの櫓なども現存する。

幕末には阪本竜馬・板垣退助・後藤象二郎・中江兆民・吉田東洋などの偉人を輩出した。

素人にも攻められた際に相手を攻撃しやすい造りになっている事が解りました。

【宇和島城】 愛媛県宇和島市 登城日 09.10.11
格式高い装飾が施されている
リアス式海岸を望める天守
二の門方向から

伊達十万石の城下町として発展した宇和島は、本来藤堂高虎がリアス式海岸の地形を巧みに活かして縄張りをした宇和島城が創建されたことに始まる。

1615年に入部した伊達家によって修復されるが基本的には高虎時代のものを踏襲している。

三層三階の層塔型天守、破風や懸魚など装飾性の高い御殿建築が多く見られ、格式を重んじた造りとなっている。

現在、堀は全て埋められ三の丸を始め約28万㎡が失われてしまった。

武家長屋門から登城したがこの門は昭和になってから、家老桑折家の門を移設したものである。

天守そのものだけを評価すれば丸岡城ゆ弘前城と同様に【小城】という感は否めない。丸無しの九曜紋は我が家と同じ家紋である。

長屋門前に30台ほど停まれる市営駐車場あり。

【伊予松山城】 愛媛県松山市 登城日 09.10.11
天守と小天守
天守から市街を俯瞰する
石垣と天守

賤ケ岳七本槍として知られる加藤嘉明によって創建され、別名金亀城と呼ばれている。海抜132㍍の勝山山頂に本丸、中腹に二之丸、山麓に三之丸を置く連郭式平山城である。現在も21棟の重要文化財が残されている。

天守は戦時にだけ使用するというのが通例だが、天井板が貼られ畳が敷ける構造になっており、襖を入れる敷居まである。天守を何に使おうとしたのか・・・松山城の不思議・・・と言われている。

加藤氏は関ヶ原で徳川方に付いた。その後会津に転封され寛永11年に病没し断絶した。加藤氏の後を受けたのは松平氏で、一旦落雷で焼失したものを1847年に天守を復興した。

姫路城と同じ天守と小天守の連立式天守となっている。現存する12天守のうち唯一【葵の御紋】が入っている城でもある。

駐車場を探して30分も彷徨ってしまった。城の近くまで行かずに少し遠い駐車場に停め歩いて向かうことをお奨めしたい。

ロープウェイ・リフト(同料金)が運んでくれて楽に登る事が出来、多くの観光客がおとずれている。

【丸亀城】 未登城
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