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旅あれこれ 中国・四国3【生き抜いた備中松山城】

備中松山城

2008/06/15

 6時に起床しゆっくり食事を済ませても、準備は全て夕べのうちに済ませてあったので時間は十分である。6時59分の岡山行きに乗るのに、駅には45分に着いてしまった。今日の列車は全て指定席を確保してあるので急ぐ必要はないのだが、性格的に余裕を持った行動しか出来ない。

 松江は【水木しげる】の縁の町のようで目玉オヤジなどが駅のいたる処にいる。ホームには大きな絵看板がが立ててあった。直ぐにシャッターを切ったが電車のスピードが上がっていて、流れたような写真になってしまったのでここでは使う事が出来ない。残念な写真である。米子を過ぎると大山が富士山のような形で聳えていた。昨日の大山は屏風のようにそそり立っていたのに・・・全く不思議な山である。見る方向によって考えられない程の変貌を遂げる。

八雲
水木しげるワールド
南からの大山

 時間ほどで高梁(たかはし)に着いた。観光協会でふいご峠までの乗り合いタクシーを予約し、時間まで街をブラつき時間になって協会前に行くと利用者は私一人であった。期待はあったが・・・ものすごーく得した感じ。差額は観光協会が負担してくれるシステムで、当然帰りも全く心配要らない。さらにふいご峠までの道すがら、武家屋敷だとか藩侯の居宅跡だとか無料のガイドを雇ったようである。この街は観光スポットとして大いにお勧めです。ベンガラの町備中吹屋へもガイドつきバスが、各施設の入園料などを全て含んで僅か3.500円で案内してくれる。こんな親切見た事が無い。

高梁のメインストリート
ここまでタクシー
急峻な石段
岩盤の上に石垣

 高梁(備中松山藩)という街の歴史背景を少し紹介させてもらいます。
   
 【山田方谷】という名前をご存知だろうか。幕末の松山藩の財政改革を僅か数年で実現したことで知られている。少し紹介させていただくと10万両あった借金を僅か数年で返済し、さらに10万両の蓄財をなした。当然領民にも我慢を強いたが、まず武士階級の負担をしいた。商人に握られていた米の販売権を取り戻し、販売時季を判断する事で収益を高めていった。また飢饉に対応できるよう在郷に米倉を置き、速やかに対応できるシステムを確立し領民に命の不安がないことを示した。領民はこぞって支持していった。

 当時の松山藩の財力では紙くず同然の藩札を銀に交換する事を急いだ。この兌換するための資金調達は苦しかった事だろう。しかしこのことは藩札への信頼を高め、次に藩札を発行したときにはあっという間に資金が調達できたと言う。当時の武士は財政感覚など全くなく、商人にとっては良いカモだったはずで、突如現れた経済学者に驚いた事だろう。藩政改革といえば上杉鷹山が有名だが、鷹山の改革は死後までの時間を要して実現されたもので、単純に見ても三十数年を要している。これと比較しても方谷の改革スピードは普通ではない。
 
 方谷は軍政改革にも力を発揮した。僅かな藩士しかいなかった松山藩では軍事力の増強は望むべくもなかった。そこで方谷は農民に対して軍事教練を実施し、さらには武器も近代化して軍事力増強を成し遂げた。これををみた長州藩九坂玄瑞は驚いた。とても小藩の軍事力ではなかったからである。

 さらに驚いたのは良く教練された兵が全て農民であったという事である。長州に戻った玄瑞が高杉晋作と作った奇兵隊の発想は、ここにあったという事はほとんど知られていない。

 幕末に中立を唱えて奥羽越列藩同盟を実現した、あの長岡藩【河井継之助】も方谷に学んだ一人である。官軍に終われいよいよ追い詰められ息を引き取る間際に、同道していた松山藩士に対して『先生の教えを守ったと伝えてほしい』と言い残したという。涙、涙。あの河井継之助をしてこの言葉を言わせる方谷という人物・・・。

 観光協会のやり方は方谷の改革に共通していないだろうか。タクシー代1500円と仮定する。客が一人だと420円しか入らない。1000円以上を市が負担する事になる。しかし今の私のように皆戻ってから高梁を絶賛し、あわよくば口コミでの広がりも期待できるかもしれない。少なくても私はベンガラの街並みを観るために再び妻と訪れる事は間違いない。市全体としては十分元が回収できるのではないか。

良くある写真【備中松山城】
炉があるのは珍しい
工夫された格子

 幕府最後の筆頭老中板倉勝静が『賄賂を使うと老中になれそうだ、お金を作ってもらいたい』と国許に手紙を送った。方谷からの回答は『国を挙げて改革に取り組んでいる最中に、殿が賄賂を使うという事は殿自ら法を犯す事になる。許される事ではない。賄賂を使わなければなる事が出来ないならなる必要はない。』と言うものだった。この逸話が方谷の人柄を示している。

 話はさかのぼるが三好氏が三代続いた後、跡継ぎに恵まれず三好藩は御取り潰しになった。この城を預かることになったのがあの忠臣蔵の浅野長矩である。このとき家老だった大石蔵之助は同道して城の明渡しに立ち会った。そして1年半の歳月をこの城で過ごした。歴史とは皮肉で・・・7年後に蔵之助自身が赤穂城を明渡す事になるとは・・・。
 
 さらにさかのぼりますが団塊世代の皆さん、子供の頃の時代読み物というと登場人物は誰でしたか?【真田十勇士】【宮本武蔵】【荒木又衛門】などのそうそうたるメンバーの中に、尼子家家臣の【山中 鹿之助】に思い当たらないでしょうか。マイナーな彼が何故かよく登場しました。尼子家の滅亡があまりにも悲運で悲惨だったからでしょうか。その山中鹿之助もこの松山城の攻防戦の中にいました。毛利に敵対させるため信長が裏から支援していたのです。この城は幾多の攻防戦を経験しました。歴史的には実に多くの悲しみも見てきました。その意味からも『関ヶ原以降に作られた城とは全く違う城だ』と言いたいのです。

     

 再び維新近くに戻る。備中松山藩は鳥羽伏見以降賊軍としての悲哀を味わった。新撰組と行動をともにし函館まで戦い続けた藩士も多くいた。中でも物語上悪評の高い谷三十郎三兄弟【近藤勇の養子となった周平は三兄弟の末っ子】は松山の脱藩藩士であった。

 松山藩と群馬の安中藩は姻戚関係にあった。安中藩士の子弟だった新島襄はそんな関係から備中高梁で布教活動をしている。現在も縁の学校も残っており、またここにはそのことに起因しているかはわからないが岡山一古い教会の建物も残っている。
 
 武家屋敷も僅かだが保存されており、また現在の高梁高校が建っている場所は、藩候の居宅跡である。
 
 備中兵乱などまだまだ材料は沢山あるがこの辺で止めましょう。要するに歴史好きにはたまらない街である。そんな背景を知っていて、余計にウキウキしながらお城見学をした私の心情は理解していただけるだろう。

高梁の街を俯瞰
下山は遊歩道で
保存された街並み 武家屋敷

 構造的には先にも言ったとおり城のコーナーで確認してください。ここでは旅としての面白さを理解していただきたいと思い記述しました。僅かな滞在だったが備中高梁には十分満足させていただきました。近いうちに再訪することになると思う。
 
 岡山駅で買った弁当【豚トコTON(とんとことん)】は私には少し濃い味であったが、豚肉は非常に美味しかった。

名残を惜しみながら高梁を後に
岡山で買った【豚 トコ TON】
京都
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