10月に師匠が走る・・・槍ヶ岳
平田影郎
前夜8時半に自宅を出発し沢渡第二駐車場到着は丁度0時であった。静かに休めそうなスペースに車を駐車させ、一気に眠りついた。4時半に起き身支度をして食事をとり5時にバス停に移動した。辺りはまだ暗く一人でバスを待っていた。その後列に並ぶ人にタクシー相乗りの声をかけるが、4人そろわず諦めて5時半のバスを待った。バスは定刻に発車しタクシーの必要もなかったと胸を撫で下ろした。
トンネルも待たずに通過でき上高地着が6時15分である。すでに到着していた先生は、バスが到着するたび降車する人の中から私を探していたようだ。もう少し遅れれば既に私が出発したと、勘違いしたかもしれない。なんとか無事に落ち合えた。
長いこと山をやっているが北アルプスの核心部は素人同然の私。それでも歩いて歩いて鍛え続けた今年は自分なりに自信があり、特別な気負いも不安も無い。ただ他と同様に一回の山行として、淡々とピークを踏むだけだ。
バスを降りると私は明日の下山が遅くなった場合を想定し、釜トンネルを歩いて抜けることができるのかを確認した。ゲートの脇をすり抜けて人間だけなら通れるという。
沢渡まで3時間も歩けば着くだろうから、下山が遅れて万が一ゲートが閉まったら本当に歩く覚悟でいた。
歩き始めた。殺生ヒュッテに最悪5時に到着すればいい。気は楽だ。明神・徳沢・横尾・一の俣・槍沢ヒュッテの間をそれぞれ1時間と設定し、早く到着した時間は休憩時間とするコースタイムが私の頭の中に出来上がっていた。そして設定通り先生も歩くことができた。
穂高岳の情景が変化するごとに写真を撮りながら進む。横尾まで前後を進む人の波は切れることが無かったのに、この先槍に向かう人がほとんどいなくなってしまった。涸沢カールの紅葉人気が槍の人気を上回っているようだ。お陰で静かな山行を楽しめそうである。
一の俣から先の槍沢にはポイントごとに大型のイワナが群遊していて、警戒心の無さには感動すら覚える。50㌢以上の固体も確認できた。どんな山奥にも分け入る“宿六”ではあるが、これほどの魚影は見たことが無い。どうかイワナたちの安住の地としてこのまま残してもらいたいものだ。
槍沢ヒュッテ出発が12時という設定だったので、1時間弱の余裕ができた。山行の都度食べ物のリサーチは周到な雑食性の先生は、“ここのラーメンは美味い”という。マユツバものだが合戦小屋のうどんの件もあり(実は今までリサーチが正しかったのはこれだけ)素直に従った。確実に2回目はお断りする味。リサーチの仕方が悪いのか情報発信者の味覚がおかしいのか定かではない。
こうしたガセネタをつかむのは、どうも先生の雑食性が災いしているようである。
槍沢沿いに少しずつ高度が上がる。それでもきつい斜度ではない。途中の紅葉はと言うと例年からは程遠いらしい。先生とのバカ話しが山行の楽しみでもある。がグリーンバンドが近づくにつれて、先生の口数が減り歩行ペースが落ち始めた。
私としては織り込み済みで、これぐらいのペースダウンは5時到着には少しも影響が無い。
叱咤、激励、休憩を繰り返し、それに堪えるように先生も歯をくいしばっている。前を遮っている張り出した尾根を回りこむと・・・とうとう見えた・・・念願の槍である。その足元には殺生も見える。
ここまでくれば占めたものだ。時間もまだ3時前であり、ここから1時間かけても予定より大分早い到着になる。二人の顔には安堵の表情が浮かんだに違いない。
あれほど1泊では無理だと言っていた先生も、ここまできて大分確信が持てたようだ。先着者たちとも話が弾み足を投げ出しての休憩となった。
ご夫婦の二人が出発し、単独の男性そして先生と私がいた。その時である。数百メートル下から女性の引きつった叫び声が我々の耳に響いた。
「助けてくださーい」
「・・・・・・・・?」何がおきているのか理解できないでいる私。再び
「助けてくださーい」
「・・・・・・・?」そして何度も叫ぶ。
いち早く動いたのは先生であった。「何かあったのかな?」と立ち上がると下に向かって「どうしました?」と声をかけた。
「つれが動けなくなりました。助けてください」
先ほど追い越す時に既に大分弱っていた女性二人のパーティのようだ。足が痛いと言っていた気がする。そんな大事にはならないだろう。ところが
「救助に行かなくちゃ」と先生。いかにも正義感が強い。私が長く付き合う所以だが、その時私の心の中では“勘弁してよ、やっとここまで登ったんだから!”と悪魔の声が囁いていた。先生が救助に下ることになれば、下手をすれば今度は私が救助要請の心配をすることになる。先生に下られては困るのである。しかし要請に対し無視する事もできない。
苦肉の策として私は「山小屋に救助を要請した方がいいよ」と話した。先生も単独の男性も納得したので、私は下に向かって叫んだ。
「山小屋に連絡して救助をお願いするので、がんばって下さい」
「判りました。お願いします」
続けて先生は「暖かくしてあげて」「名前は?」などとやり取りをしていた。そこへ男女の二人が登ってきて、我々に例の女性の状態を伝えた。何と心臓が苦しいと訴えているらしい。原因は“足”だとばかり思っていた私は驚いた。ひょっとして“心筋梗塞”も・・・そうだとしたら一刻の猶予も無い。このままお陀仏になられては寝覚めが悪い。
“急がなくちゃ、そうだ先ほどのご夫婦が我々より小屋に近い”事に思い至った私は上に向かって大声で呼びかけた。小屋への救助要請を依頼すると快く引き受けてくれた。先ほど話したときに既に人柄を察していた。山のベテランでモラールも高く技術・体力も正真正銘の山男は、小屋に向かって翔け出してくれた。
まさかその方だけに頼るわけにもいかず、行き掛かり上私も走ることになってしまった。この急登を走って登るのは辛い。10メートルも走ると足を止めたい衝動に駆られるが、生死の狭間にいると思うと足を止めることができなかった。
“いつもいつも・・何でそうなるの”などと誰も聞いていない古いギャグを言いながらも真剣そのものであった。ただ播隆窟にだけはきちんと立ち止まって手を合わせさせていただいた。今回の目的でもあったので・・・。
家族の健康と他人の命を秤にかければ今の私には家族の健康のほうが重い。
グリーンバンドまでダメージの無かった私は、この間を走って登る余力が残っていた。どんどん高度をかせぎご夫婦の奥さんを追い抜く。声のやり取りが耳に入っていた他の登山者もギャラリーとなって声援を送ってくれた。富士登山駅伝のランナーのような心境になっていた。ご主人の後方100㍍ぐらいまで迫った時、ご主人は小屋の手前50㍍の所にいたが限界のようで立ち止まってしまった。
膝に手を突いて屈みこみ背中で息をしている。呼吸を整えて小屋に呼びかけるが小屋からの反応は無い。諦めて再び走った。
私は走り続けていたので小屋への到着はほぼ同時になってしまった。
先に到着したご主人が依頼すると早速警察に電話をいれてくれた。状況確認の間イライラしながら待っていた。警察から「正式な救助要請か?」と確認されたらしいが我々が判断できるはずが無い。結局警察と小屋との協議で小屋から人が出ることになり、3人が出発したのは30分も後の事だった。
とにかく責任は回避できた。例えお陀仏としても“我々ができる事はやった”と言い訳を構築する。
宿泊手続きをし荷物を降ろしてご夫婦との会話に花が咲く。我々に1時間近く遅れて先生が到着した。先生も輪に加わり話していると遭難騒ぎの当事者が小屋に連れてこられた。弱っているが大丈夫のようだ。パーティは4人だった。リーダーが先に槍岳山荘に向かってしまい、二人で歩いている間に一人がおかしくなったらしい。心細くなってあの騒ぎだ。これはリーダーに問題があった。やはりリーダーは全員の状態に気を配れなければならない。自分だけが小屋に向かったとは呆れた。歩行ペースが合わないとしても同行した以上それが責任でもある。リーダーの責任を再認識した。
この日の殺生の宿泊者はあの騒ぎのときグリーンバンドで縁を持ったメンバーだけだったのが笑える。ご夫婦・男女のペア・男性の単独行・先生と私。同じリスクを共有したメンバーは意気もあい楽しい夜になった。食事後のストーブを囲んでの談笑は時間が過ぎていくのがもったいないほど楽しいものであった。
そんな時遭難者グループが食堂に現れた。だが誰一人挨拶をするものがいない。あまりと言えばあまりである。槍を走って登った私は何時もなら3杯食べるご飯も、胸が支えるようで2杯しか喉を通らなかった・・・が、それはいい・・・それはいいがご主人にだけはお礼を言ってほしかった。それにしても自分でも呆れるほどいつも損な役回りで“何で俺が走らなくちゃいけない”と布団の中で一人、身の不運を嘆く師匠であった。
4時に起床するつもりだったが大分遅れて目覚めた。というのも昨夜寝入ってから宿泊料金に間違いがあったと小屋のスタッフに起こされ、その後中々寝付けなかったのが原因である。
4時40分に小屋を出発した。まだ暗く足元もおぼつかない岩の上を確実に高度を稼ぎ、30分で槍岳山荘に到着した。先生はやっぱり早朝に弱い。先生が山荘で休んでいる間に私は一気に登頂した。岩場は梯子・鎖で対策が施され、落石さえなければ何も問題は無い。まだ暗い穂先には誰も取り付いておらず、安心して登ることができた。
残念なことに日の出の方向だけが雲に覆われる不運に見舞われ、年賀状用の写真は撮ることができなかった。先生も登頂ししばらくの間頂上は我々だけの空間であった。しかし“槍”という特段の感慨もなく、淡々と踏んだ一つのピークでしかなかった。何か覚めた感覚でしかこの登頂を捉えることができない。あえて何かを探せば先生が一緒に歩けたことかな。
下りは東鎌尾根を廻る。むしろこっちのほうが痩せて切れ落ちた場所の通過に、一瞬身体が強張った。殺生に戻り食事をして8時に上高地へ出発した。
帰路は本当に遊びながらの下山だ。上高地には早く着いても呆れるほどの人の列がバス停にできているはずだ。むしろ遅く到着したいほどだ。槍沢で30分、横尾で30分、徳沢で30分と休憩ばかりに時間を費やしたが、上高地には少し早いぐらいの4時に着いてしまった。
心配した通りバスを待つ人の列は河童橋の近くまで伸びていた。釜トンネルで事故があり暫く通行止めの影響による混雑だったが、事故処理が終了し丁度動き出したところであった。
急いでタクシー乗り場に移動すると50人ほどしか並んでおらず、40分ほどで無事に乗車できた。釜トンネルの信号も3回目で通過でき、5時過ぎには沢渡に戻ることができた。二日間で14時間の歩行は、南アの山々に比べたらどうってことない行程だ。
温泉は沢渡の梓湖畔の湯。話によれば中の湯からの引き湯らしいが本当のところは定かではない。日帰り入浴施設の湯としては比較的良かったかもしれない。露天からのロケーションは評価に値する。