小諸城址懐古園と蕎麦の草笛【長野・小諸】
写真は小諸市観光協会のホームページからお借りしています。
今から35年以上の昔。最初に懐古園を訪ねたのは、妻と二人で信州の旅を始めた頃で、城を見るというよりは園内にある小山敬三画伯の美術館が所蔵する『紅浅間』を見るためだった。
あまりにダイナミックな浅間山が描かれていて、圧倒された記憶がある。
たまたま桜の時季であった。ここが桜の名所とは知らずやってきて、駐車場にはいられずに苦労した記憶がある。
たまたま蕎麦の草笛の駐車場が空いていて、急きょここに停めた。
当時、私はそばが食べられず・・・というよりは食わず嫌い。車を停めた以上は仕方なく草笛のそばを食べる事に。
出てきた胡桃ダレで食べる蕎麦の美味しかったこと。これ以降草笛の蕎麦のとりこになる。
私が蕎麦好きになったのは、この草笛の蕎麦が原因である。
だから私たち夫婦にとっての信州は・・・小諸は・・・草笛は特別な存在なのだ。
小諸城は1400年代にはじまり、1500年後半には武田信玄のの勢力下にあった。山本寛助の縄張りによると伝えられているが、確たる根拠は存在しない。
平城で、特に城下町より低かったため『穴城』とも言われている。現存する三の門は重要文化財に指定されていて、現在の懐古園の入り口に当たる。
また同じく重要文化財に指定されている大手門は、懐古園とは駅を挟んだ反対側の市街地にある。
大手門や石垣は400年前の姿をそのまま残している。石垣は『野面積』である。
明治の廃藩置県で廃城となるが、元小諸藩士の有志が明治政府から買い戻して公園として整備した。
元藩士の努力によって、結果として幸運にも門だけは当時のものが残された。
展開する桜の波は『日本桜の名所百選』に選定されていて、石垣の上から見下ろす桜の波はあたかも城址を覆う霞のようでもある。
初めて訪れたのは現役当時の5月連休の時で、大渋滞に巻き込まれて大変な思いをした。市民の憩いの場として確り定着しているようだ。
城址の懐古園内は島崎藤村の記念館があり、その前を通って小山敬三美術館へとアプローチは続く。
記憶をたどると…美術館の一番奥側の正面に紅浅間の大作が掲示されていた。
画伯は島崎藤村の勧めでフランスに赴き、油彩画の研さんを積む。1975年に文化勲章を受章した。
同年、画伯から寄贈された建物と絵画で美術館が作られた。
所蔵作品は『赤い浅間山』『浅間山燦明』『紅浅間』など40点。この紅浅間を一目見たかったのだ。
勝手に草笛の駐車場に車を停めた手前、あまり好きではなかった蕎麦を食べる事に。
当時の草笛は古い建物で、立てつけの悪い引き戸を無理やりこじ開けて入店する。ここからしてあまり美味しそうな店ではなかった。入ってしまったことを後悔するような、テーブル・座敷。
当時の私は、子供のころに飛ばして遊んだ竹ひごプロペラ飛行機の動力として利用したゴムひもが連想され、どうしても蕎麦を喜んで食べる気にはなれなかった。
もちろん時代的にも故郷岩手は『わんこそば』等があり、立派に蕎麦の文化は確立されていたのだが。
ところがこの草笛の蕎麦が私の人生を一変させた。あきらかにそう確信している。
胡桃ダレの・・・何ともあのそばに絡みつく感覚は初めての感覚と味覚で、一気に虜になってしまった。
蕎麦って・・・こんなにも美味しいものなのか!
以降、妻が昼近くになって『蕎麦が食べたい。胡桃のおはぎを食べたい』というと、車を飛ばして向かう。
我が家からは高速道路を含めて1時間の距離。昼前にそばが食べたくなったら、お昼は小諸の『草笛』か湯沢の『しんばし』となった。
草笛は小諸・佐久・上田などに支店があり、6~7店舗での営業。我が家は小諸の本店派だが、上田も数回。
創業者は文化や芸術に造詣が深く、若手を育成するための文化賞などを創設して支援している。
だだ利益をむさぼるのではなく、地域に還元し・・・後世に遺産を残す努力、人材育成を惜しまない姿勢が、何とも蕎麦の味にそのまま表れている。
多くの友人知人を案内しては、この薀蓄を自慢げに披瀝している。
草笛と言えばもう一品・・・胡桃おはぎ・・・絶品。胡桃はこの地方の特産である。
草笛の店舗の真ん前が市営の有料駐車場で、桜の時季などの繁忙期でなければ車は直ぐに停められる。
また草笛にも数台分の駐車場がある。
かつては・・・渥美清演じるフーテンの寅さん・・・の記念館も歩いて数分の場所にあったが、残念な事に現在は閉館中。
来訪者が少なくて、市としても運営経費の捻出が大変なのだろう。貴重な観光資源なのだが。