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旅あれこれ 関東15【鋸屋根の街】

鋸屋根の街・・・桐生

2007/04/15(日)

 結局両毛線の街を訪ねることになっていました。栃木・岩舟・佐野・足利と廻って来ましたので今日は桐生に向かいます。性格上・・・こだわるとどうも中途半端にしておけないのです。

 駅に着くと数分前に電車が出たばかりで、1時間近く待つことになります。伊勢崎行きのバス停に行ってみると、あまり待たずにバスがありました。たまにはバスの旅も『あり』・・・でしょう。料金も比較すると安いようですし、何より電車で高崎を回るよりかなり早く着く事ができました。

 
 両毛線沿いには歴史上重要な街や有名な侠客の伝説・史実が多く残されています。あまり興味も持たれる事が無いと思いますが、つたない知識を少しだけ・・・。

 説明不要とは思いますが・・・足利市は室町幕府発祥の地ですし、この【尊氏】と覇権を争った【新田義貞】の新田氏も群馬のこの地域が発祥の地です。南北朝時代の史実はこの地を抜きに議論することが不可能なのです。30年も昔になりましたが、新田次郎氏著の【新田義貞】をあっという間に読みきったものでした。
 
 さらにこの地域は多くの侠客が生まれました。どうしてこの地域にこうした背景があったのでしょう。

 伊勢崎や桐生は近年まで《銘仙や絹織物》の産地として知られていました。養蚕や織物が盛んだと言うことは女性の労働力に依存する実態がありました。男性は必然的に怠け者になって行きます。上州名物『カカア天下』の所以だと思います。また上州は中山道・例幣使街道・三国街道が交わる交通の要衝で、宿場や関所が多く旅籠・飲食店が発達しました。日銭が多く落ちた背景が大きな要因と思います。当然賭場なども開帳されやくざ者のシノギには十分だったのでしょう。

 賭場の上がりを『テラ銭』と言ったのですが、どうしてかわかりますか。幕府は賭博を禁止していましたが、お寺の修復のためにあがりを利用する場合には大目に見ていました。そこでそれを名目に利用して門前町では賭場が多く開帳されました。これが『テラ銭』の謂れです。
  
 つとに知られる大親分は【大前田栄五郎】、彼の【清水の次郎長】も頭が上がらなかった勢力を誇ったといいます。義に厚い親分と言う説もあれば、冷酷無慈悲と言う説と色々です。私は前者を信じたいと思いますが所詮はやくざですから。

 前橋と伊勢崎の間には【駒形・・・現前橋市】があります。ここは長谷川伸の小説【一本刀土俵入り】で知られる【駒形茂兵衛】の里です。横綱の夢破れた茂兵衛はやくざ者に身をやつしますが、取手宿で昔世話になったお蔦さんのためにやくざ者をタタッ切って恩返しをするのですが、その様子を横綱の土俵入りに例えた物語です。架空の人物と思われていましたが、駒形で墓が見つかっていますので実在したと思われます。

 そして伊勢崎と桐生の間には【国定・・・現伊勢崎市東町】があります。説明は要らないと思いますが【赤城の子守唄】等で知られる【国定忠治】の生誕地です。大前田の栄五郎からシマをもらっていますので、子分のような存在だったのでしょう。義民と言う説はちょっと怪しいようで、カッとなりやすい乱暴者だったようです。しかし今でも群馬県内では中曽根総理や福田総理、小渕総理など並み居る政治家を抜いて偉人のトップとして慕われているそうです。

 かつてテレビドラマで有名になった笹沢佐保原作の【木枯らし紋次郎】も上州新田郡が舞台です。三日月村という場所は存在せず小説の中での架空の人物と思われていますが、国定忠治の兄弟分がモデルで実在の人物のようです。

 このようにこの系統に興味のある方には堪えられない・・・ヨダレの出そうな地域です。知れば知るほど十分に楽しめる・・・材料には事欠きません。同時代として『大利根月夜』の【飯岡の助五郎や笹川の繁蔵・平手造酒(ひらてみき)】が絡むと【瞼の母・・・番場の忠太郎】の話が出てきます。そして【清水の次郎長】や【黒駒の勝蔵】・・・片岡知恵蔵や大河内伝次郎などがスクリーンで活躍する姿が瞼に焼き付いています。

 すべて幕末が舞台ですが、幕府の統制が利かなくなった時代背景を如実にあらわしていると感じませんか。ですから侠客の本質は明治維新の志士たちと同じに扱っていいと思うのですが・・・。英雄伝としてそれは全く脈絡がないと思うかも知れませんが、坂本竜馬だって桂小五郎だって所詮は人生を【賽の目に賭ける丁半博打】を打ったのですから・・・。勝ったからこそ【官軍】ですが、負けていれば単なる【無頼の徒】と言われていたかもしれないのです。明治維新は新たな夜明け・・・などと崇高なモノではなく、幕府に変わって薩長などの特定勢力が台頭しただけの時代と・・・私は思うのですが、皆さんはどう考えていますか。

【両毛線国定駅】
【渡良瀬渓谷鉄道】
【桐生市街風景】

 長々と興味もない話にお付き合いいただきました。いよいよ今日の旅です。織物記念館や有燐館、そしてやはり蔵が残る街並みを見ていきます。特徴は【鋸(のこぎり)屋根】の建物が何棟か残っていました。どうしてこんな屋根が必要だったのでしょう。

【有燐館・・・大商家】
【蔵の街】
【のこぎり屋根・・・1】
【のこぎり屋根・・・2】
【のこぎり屋根・・・3】

 のこぎり屋根の理由がわかりました。銘仙や絹織物の里・・・秩父にもありましたので教えていただきました。急傾斜の方が明かり取りの開口部や窓になっています。そして窓は北向きになっています。

 季節を問わず終日安定した明かりが入るように考えられているのだそうです。

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