長谷川等伯展【東京・台東】
2010/03/03(水)
今年も国立博物館にビッグなイベントがやってきました。話すと長くなりますが我が家は真言宗智山派の信徒ですが、その本山に当たる京都智積院の障壁画がやってきたのです。僅か1ヶ月間の開催ですから日程の余裕は無く・・・昨年の【阿修羅展】で懲りていましたから・・・平日に企画したわけです。
今回のイベントには国内に残るほぼすべての作品が集められました。国宝3点、重文30点など計80点です。当然皆さんが教科書などで目にした作品も多く含まれています。【枯木猿侯図】【千利休像】【武田信玄像】等・・・は間違いなく目にしているはずです。この中で信玄像は・・・実は加賀の畠山一族の誰かの絵では・・・と言われています。長谷川等伯は加賀の国七尾に生まれ30歳を過ぎるまでこの地で暮らしていました。
最近はその時代のものと考えられています。
京に登り当初は狩野派の門を叩きました。利休の目に留まり利休が【大徳寺山門の増築部分】を寄進することになり、そこに等伯が描く事になりました。ところが大徳寺は狩野派の牙城でしたから、これが大騒ぎになってしまいます。天皇まで巻き込んだ事件に発展してしまいます。あの狩野永徳をして恐れさせた程の実力を備えた絵師だったのです。
智積院は秀吉の嫡子鶴松の菩提寺ですが、この障壁画を描く事になりました。あの【楓図壁貼付】です。
本当に秀吉と利休の寵愛を一手に受けました。1593年に嫡男の久蔵に先立たれますが、これは等伯の台頭を恐れた狩野派による暗殺だったと言われています。
仏画は平安の時代が最盛期でしたが、その後凋落の一途を辿ります。しかし等伯のそれは卓越しているとの評価が確立されています。
晩年は右手の機能も失います。そして徳川家の招聘を受け江戸に下りますが、江戸到着の2日目にその生涯を閉じました。翌年には宗宅も滅し長谷川派は消滅する事になります。しかしその影響はあらゆる派に影響を及ぼしていると言われています。波乱万丈の生涯でした。
最後に【松林図屏風】が展示されていましたが、本当に漂っている【霧】を見ました。