京都は幾多の歴史の舞台になってきたところ・・・近づくにつれて史跡がそれを証明してくれます。たとえば・・・。
昨日の亀の門がある【義仲寺】。平家を追悼した木曽義仲が、同じ源氏一門の義経らに討たれて葬られた場所でした。側室の巴御前が移り住んで庵を結んだと言われています。
その無名庵に後年、松尾芭蕉が長く逗留していました。亡くなったのは大阪ですが、弟子たちに遺言で『木曽殿の隣に葬ってくれ』と託していたとか。
弟子たちは遺言通り義仲寺に芭蕉を葬ったのですが・・・又玄は【木曽殿と背中合わせの寒さかな】と詠んでいます。何だか又玄の心中は・・・芭蕉の思いとは違う気がします。
不思議なのは・・・なぜ芭蕉は数百年も時が経ち接点のない義仲の隣で眠りたかったのでしょう?
諸説ありますが・・・芭蕉は義仲の人間性が好きだったのは間違いなく、具体には【滅びゆく美学】みたいなものを感じていたのでは?
正直で豪胆なだけの義仲は、権謀術数にたけた頼朝の前には赤子。簡単にひねりつぶされ歴史の舞台から消えて行きました。でもそんな義仲が・・・江戸時代後半までは人気絶大だったそうです。
芭蕉も多くの江戸っ子も謀略で天下人になった頼朝よりも、歴史から消えて行った義仲に哀れを感じていたのでしょう。そんな美学を日本人は好みますから。
真田幸村・土方歳三・大石内蔵助・河井継之助・・・勝利者ではないのに未だに多くの日本人に愛されている人物達。私もどっちかというと、そんな美学を抱く人間なんです。
だから・・・こんな話がゴロゴロ転がっている歴史の中心となった京滋・・・本当に楽しく歩いてきました。妻の足は三条大橋まで何とかもってくれました。
詳しくはホームページの【中山道】のコンテンツでお楽しみください。写真は義仲寺です。この門の屋根瓦が昨日の写真です。
写真をクリックすると、説明版を大きくしてご覧いただけます。
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