猛威を振るうコロナウイルス。
障害者の親が隔離されてしまい、残された障害のある息子が死亡するというニュースが。
中国って国はすごい国で責任感も残されていないのか・・・と憤ったら。
どっこい日本も同じでした。
保護した会話も筆記もできない(?)方を、よその管轄に連れて行っておきざりにしたという福祉事務所の役人。
これモラルとか責任感という話ではなく・・・犯罪です。
保護責任者遺棄という立派な犯罪です。
しかも上司に相談したら「見失ったことにしよう」と指示を受けたというから、昔はやった「組織ぐるみ」というやつですね。
刑務所に入るに値する犯罪なのに、所長さんが出てきて謝っておしまい・・・ってわけにはいかないでしょう。
でも・・・なんでもありの世の中・・・に代わってますから、そういう結果かもしれません。
憲法を変えたい・・・世の中を変えたい・・・と言っていた政治家らしき人たちが、公約通りに世の中を変えましたから。
さてつまらない話はやめにして、またしても同級生の死です。
岩手の親友から電話で知らせがありました。
葬儀には行けないのでお香典と花輪を一緒に上げたいとお願いしました。
年齢が年齢ですから、こんな連絡も仕方のないこと。
小さな町だったので、小学校は二クラスで80人ほどの同級生でした。
それでも戦後のベビーブームですから、田舎町としては多い年代です。
今でもクラス会で全員の名前がわかるほどです。
今回亡くなった彼は特に印象深い友でした。
ちょうど私が学校に通う通り道に家があり、いつも寄って声をかけて通ってました。
お母さんは学校の先生でした。
我が家が牧場をやっているので朝が忙しく、満足に朝食も食べていないと想像したんでしょう。
寄ると必ず何か食べ物を食べさせてくれたのでした。
当時、見たこともない卵の料理、今にして思えばオムレツだったかも。
フレンチトーストのようなものの記憶もあります。
いずれにしてもハイカラな家でした。
その息子は・・・少し自慢する話し方をする子だったので、高校に入ると進路も違って付き合いがなくなりました。
ところが40年以上昔のある時・・・私の母が私の家に来るときに・・・彼に助けられたことがありました。
当時、東北本線の終着駅は上野でしたが、唯一東京までの列車がありました。
母の乗った列車はそれでした。
私の勤務は秋葉原でしたから妻と東京駅で待ち合わせて、母親を東京駅で待ったのです。
当然母親は東京まで来ると思っていたのですが、母親は上野で降りてしまったのでした。
待てども待てども母親が東京駅のホームに降り立つことはありません。
慌てて失態に気づいたときには1時間以上も経過していたでしょうか。
携帯電話もない時代でこその失態でしたが、今では考えられませんね。
おそらくは上野で下車したのかも・・・と思いついて、二人であわてて駆け付けました。
わずか数駅なのに電車の進みがやけにじれったい。
どこにも動かずにいてくれればいいが・・・と期待しますが、確実に上野で降りたという確証もありません。
不安で不安で・・・こんな失態をした自分が情けない。
それ以上に、右も左もわからない大都会に一人残された母はどれだけ心細かったか。
ところが・・・駆けつけた上野駅のホームに母は待っていてくれました。
そしてその隣に彼が一緒に待っていてくれたのです。
地元でブティックを経営していた彼が、東京に仕入れに来たのです。
その降り立ったホームに不安そうに立っている私の母を見つけたのでした。
約束もあったろうに・・・不安な状態の私の母を一人残して立ち去るわけにはいかなかったのでしょう。
どれほど彼に感謝したことか・・・昨日のように思い出されます。
自慢話ばかりの男で・・・あまり好きではなかったはずなのに・・・感謝の気持ちを忘れたことはありません。
どうか安らかに眠ってください。そしてありがとう。合掌。
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