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仏道

雑感

夕べ23時の天気予報を見ていると『明日はヒョウの可能性がある』と言っていました。翌日は妻の検査日でしたから、病院に缶詰になりヒョウが降っても何も出来ません。真夜中ですが慌ててゴミ袋などで応急対応をしました。朝起きてみると笑えるような始末ですが、手塩に掛けた野菜を守りたい一心でした。

写真は猫の額のような畑のヒョウ対策です。

実は妻はある病気を罹患しています。そのため定期的に検査が入ってきます。半年に1回CT、また半年に一回エコーが入ってきます。要するに3ヶ月に一回に画像診断になります。さらに胃カメラ、大腸ファイバー、心臓エコーが入ってきますから、2ヶ月に1回は何かの検査になります。

CTとエコーの同じような検査がそんなに必要ですか・・・と思うかもしれません。
しかし病巣の大きさや数は同じ状態で比較しないと意味がないのです。今のCTと6ヶ月前のCTを比べ病巣の動きを確認するのです。

CTとエコーの画像を比べても参考にはなりますが、確りとした診断は出来ません。例えばCTでは写っているのにエコーでは写らないなんて事もあります。
幸いな事に今日の検査結果も変化なしで、非常にいい状態でした。

春は花 夏ホトトギス、秋に月 冬は雪冴え・・・今日見た【禅】という映画の主人公、道元禅師のことばです。要するに【当たり前のこと】【あるがままの事】を当たり前にまたあるがままに受け入れる・・・ということらしいのです。
病もあるがままに受け入れなければならないと言う事なのでしょう。しかしなかなかそこまでにはなれそうもありません。

信者の女性の子供が病気で死にそうになりました。女性は道元に助けてとすがります。
道元は『たった一つだけ助かる方法がある。今まで親類中から死人が一人も出ていない家に行って豆を一粒もらって来い』と言います。女性は駈けずり回ってそんな家を探しましたが、当然そんな家は一軒もありませんでした。

自然の摂理の中では人間の力も、ましてや科学の力でも抗う事は出来ないと言いたいのだと思います。そして人間はそれを受け入れなければならないのでしょう。
それが【悟り】なのでは?

では信仰心や信仰とは何なのでしょう。何も変える事が出来ないなら御仏の力とは何なのでしょうか。祈っても意味がないではないですか。

私の相棒で四国遍路を結願した大師の弟子は【何もお願いしない、一心に心経を唱える事】と言いました。映画【禅】の中にヒントがありました。
得度して尼僧になった先の女性が田舎で子供達に座禅を指導していた時、一人の子供が指で印を結ばずに下の手のひらを上の手のひらで重ねて覆うようにしています。外は雨が降っていました。

尼僧は子供に『手が違う、確り印を結ぶように』と言います。しかし子供は『雨が降っているから・・・』と答えました。その手のひらの中に包まれている見えてもいない【仏さま】に雨が当たらないように覆っていたのでした。

信仰とは形ではなく【心の持ち方】【思いやる心】と道元は言いたかったのだと思いました。
リタイヤ生活でやることも無くなると、知らず知らず哲学者になっていくのかもしれません。

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