今回の天皇陛下のパラオへの追悼訪問は、胸がいっぱいになってテレビを観続けられませんでした。
激戦地への慰霊は前々からのご希望だったとか・・・ご高齢にもかかわらず前日はホテルに入られたのが0時になっていたそうです。
体力的には本当に辛かったと思うのですが、慰霊の思いがそれを上回ったと言う事でしょう。
現地で眠る英霊やその遺族にとってどれほど嬉しかったことか・・・陛下の人となりがしのばれます。
大震災の慰問にしても・・・冷たい板の間に確りと膝を突かれて、被災者と同じ高さでお話しされる御姿。
今上陛下と美智子皇后様の世代に生きて良かった・・・と思わず発しました。
それにしても強行軍で・・・辛かったと思うのですが、昭和天皇の思いも抱いてのご訪問だったのでしょうね。
宮城県の蔵王の麓に【北原尾】と言うところがあります。戦後パラオから引き揚げた方々が入植したところです。
汗と涙と血で耕した土地を捨てて引き上げなければならなかった皆さんが、再起を期して入植した時・・・。
パラオを偲んで【北のパラオ】と名付けました。それが【北原尾】なんです。
私の実家、岩手県の北上と言うところですが、近くには戦後引揚者が入植開墾した開拓村が沢山ありました。
酪農をやっていた我が家は多くの方に牛を貸し出して肥育させたり、搾乳させたりしていました。
まだ小学校にも入学していない私は父の言いつけ『〇〇さんのところから牛を連れてこい』と言われて何度も開拓村に行きました。
当時は我が家もですが、開拓の方も食うや食わずの貧しい生活で、杭を荒縄で組み立て、それに蓆を貼り付けただけの家とは呼べないところで生活していた方も沢山おりました。
当時、学校給食などは無く、土方弁当に梅干しだけのおかずと言う同級生もいました。
そんな生活の中から、牛を貸し出してくれるありがたい人の息子である私に、最高のもてなしをしてくれるのでした。
寒い地方でしたから・・・素麺を煮込んでくれるのは最高の御馳走でした。自分たちは一年に一回でも食べられたのでしょうか。
何かの拍子にふと・・・苦しい中から出してくれる食事は辞退するべきだったんだろう・・・と回想することもあります。
私は今でも煮込んでくたくたになった素麺が好きなんです。
そんな苦しい時代もあったことを・・・天皇陛下は忘れずにいてくださったのか・・・私たちでさえ豊かさに慣れて忘れ去っていたのに。
天皇陛下の御心に感激と感謝・・・そして涙が止まりませんでした。
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