私は転職した経験があり、最初の職は製薬メーカー系の会社でした。
10年ほど勤めて退職し、2度目の職を30年ほど定年まで勤めた経緯があります。
その前職時代にある医院の開業から軌道に乗るまでを、アドバイスしてお手伝いしたことがあります。
それはもう普通の付き合いではなく、妻が具合が悪い時など子供連れて行って奥さんに面倒を見てもらったことさえあります。
先生と奥さんがマージャン大好きで、先生ご夫婦と私ともう一人を加えて毎月麻雀定例会でした。
河口湖の別荘まで車を飛ばして、泊りがけの麻雀もしょっちゅうでした。
先生の全盛期を見ずに私は転職でしたが、その後も家族の診療をお願いして練馬の上石神井まで通ったのです。
20年ほど前まではそうして通っていましたが、今の家に引っ越してからは自然に足が遠のき・・・ご無沙汰することも多くなって。
年賀状は交換するものの、2年に一度ほど電話する程度に付き合いも薄くなってました。
10年時代では仕事で私がお願いすることはほとんど聞いてもらえました。
逆に私を誠実な人間と信頼してくれて、いろんな相談をしてくれて感謝の言葉もいただいてました。
先生ご夫婦のお陰で仕事が楽しいと感じる10年間を過ごせました。
妻の手術のことも親身になって相談乗ってくれて、どれだけ心強かったことか。
奥様の心配りもまた、思い出しても・・・ありがたくて。
感謝してもしきれない、恩人でした・・・が。
一昨年、年賀状が届かず・・・不思議に思っていました。
そしたら昨年の正月に年賀状が届き、先生が一昨年に亡くなられたことを知らされたのでした。
状況は理解できたものの、私ごときがしゃしゃり出てご仏前に参るのも・・・と気おくれして。
そしたら今年の正月に年賀状で、ぜひお会いして先生の最後の話をしたいと。
あわてて電話して今日を約束して。
電話して・・・奥様から・・・そこまで感謝されていた・・・のを知って驚きと更に感謝の念を強くしたのでした。
お昼などを用意されてもお手を煩わすだけなので「午後に伺う」と言ってあったのですが。
一昨日電話があって「11時にきて、お昼を一緒に食べましょう」と。
その時間に伺うと奥様が外まで出迎えてくれて。
廃業後ご自宅は立て直されていて、先生は亡くなるまで13年過ごしたそうです。
検査などが嫌い・・・まさに医者の不養生そのもので、病巣が発見された時は余命数か月と言う肺がんの診断。
先生の御遺影に手を合わせ、その前で闘病の様子などを伺いました。
亡くなる前日まで痛いとか苦しいとか一切なかったそうです。
大好きなたばこもとうとうやめることなく、前々日まで吸い続けたそうです。
大往生の88年でした。
わざわざ私ごときを呼んでそんな話をしていただいた奥様の心配りの凄さ・・・上流階級ならではを実感しました。
下々の考えはそこまで及びません・・・恥ずかしながら。
氏は育ち・・・と言いますか、ただただ感服。
予約されていたフレンチレストランでコースを頂いて、再びご自宅に戻って在りし日の先生を偲んで話が弾みました。
長時間の滞在もご迷惑と思い、次回も連絡を取り合うこととして・・・再びご遺影に手を合わせてお暇いたしました。
2年ほどのつかえがとれた感じがしています。
この練馬の上石神井と言うと、我が相棒が住んでいる公団は駅の反対側。
電話するとぜひにも寄って行けと・・・。
コンビニでも喫茶店でもあるいは立ち話でも・・・顔を見るだけでもと思っていたのでしたが・・・。
30年ほど付き合っていて、初めて相棒のアジトに潜入。
その話はまた明日。
一人で寂しい暮らしと思いきや、下男と言うか下女と言うか話し相手が住んでました。
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