美濃路1【馬籠宿・落合宿~大湫宿】
2011/02/26(土) の続き
【馬籠宿~落合宿】4.5キロ
車を馬籠の駐車場に移すと再び歩き始める。日が長くなりこの時間でやめてしまうのは、如何にも勿体無い気がする。せっかくの二日間を確保したのだから有効に活用して、少しでも先を目指したい。
のどかな雰囲気の中を荒町に向かって歩いて行く。途中で左手に恵那山が綺麗に見えた。
ほんの数百㍍で馬籠城跡に到着、わざわざ寄る事はしなかった。
荒町の集落も小さいながら中々趣のある集落。またユニークな表示が目に付いたので下に写真を掲載。ちょっと・・・おしゃれな感覚でしょう。
途中左手に鎮守の森がある事になっていて、気をつけて進むも気がつかなかった。
展望台があり公園になっていて、岐阜県の夕日百選になるほどのサンセットポイントだそうだ。
馬籠から2㌔ほどでいよいよ美濃路に入る。ここには京都からの旅人が目にした【これより木曽路】の碑がある。
そして新茶屋と言われる民宿が残され、一里塚も現存している。街道の雰囲気はピークに達する。
新茶屋を過ぎて少し下るといよいよ有名な落合の石畳。がっ・・・ここでアクシデントが起きてしまった。妻の左膝が痛み始めたのだ。ストックを使って少しでもダメージを軽くしたいと考えたが、急激に下っていく石畳は容赦なく妻の膝にプレッシャーをかけ続ける。
ナンジャモンジャの森がある。雄雌が異株のモクセイ科の植物だが、何だか分からなかった村人がナンジャモンジャと呼んだのが始まりだそうだ。
この石畳は大部分が修復されたものだが、かつてのままの部分もあわせると1キロに近く残っている。
茶屋を過ぎて十曲峠にかかる。ここは上り下りのない峠。江戸時代は急坂で難所の一つだったが、1771年に現在のように付け替えられた。当時の面影が色濃く残っている部分だ。
妻の左足はパニック状態で、馬籠から欲張って歩いてしまった事を後悔しながらの歩き。馬籠でやめて休養をとり翌日の挑戦で良かったのかもしれない。ゆっくり歩いていいのだが・・実は落合宿から馬籠に戻るバスの時間が迫っていた。あせって再び怪我でもさせては大変だし、無理をさせて明日に影響してもいけないから『ゆっくりでいいよ』と声をかけ続けて歩く。
左手に薬師如来を本尊とする医王寺がある。このご本尊は行基の作といわれている。通りからだが手を合わせた。
ここからは残り1キロほど。がっここからの下りは、妻の膝には何とも辛く苦しいものだった。もうバスの時間はあきらめていた。時間的にはぎりぎりかなと思ったが、バス停の場所もこれから探すのだから、当然・・・無理のはず。
落合川を渡るともう集落が見えている。古い家並みを感じさせるので、間違いなく落合宿と確信した。
庭を掃いていたご婦人にバス停を聞くと、なんと目の前にある高札場跡の碑がほぼバス停だった。時間を確認するとぎりぎり数分を残してセーフ。結局、今日は本陣までの到着をあきらめる事にした。
本陣到着をあきらめたのは残念だが、バスに間に合ったのは本当にラッキーで・・・この後の行程をずいぶん楽にしてくれた。明るいうちに食事の準備に取り掛かれたのはありがたい。
妻は本当に良くがんばって歩いてくれた。努力賞をあげたいと思います。
バスを待つ数分の間に私は明日車が置けそうな場所を探したが、さすがに数分間の捜索では無理な話で見つけられず。
バスの乗客数人でバスはノンストップで走り続けた。停車した一回で他の乗客は降り、残ったのは馬籠まで行く私達だけ。峠道をバスは快調に走り続ける。
あまりの揺れにとうとう私50年ぶりぐらいに車に酔ってしまった。子供の時は良く酔ったが・・・しばらく遠ざかっていた記憶が蘇る。さぞかし妻もと思っていたら『揺れに逆らうから酔うのよ』とご指導を受けてしまいました。
馬籠の交番であれこれ情報を貰って、道の駅きりら坂下で夜を過ごす事に。予定では道の駅賎母だったのだが、馬籠から近いほうを選択した。しかし結果はちょっと失敗で・・・夜は私たちの車だけで、寂しく不安な夜になってしまった。
でも歩いて一分の隣の敷地にマーケットがあり、おいしいビールが直ぐに入手できたのでメリット・デメリットを相殺。おかず類は持参していたので、直ぐに食事になる。湯たんぽのお湯を沸かしながら一杯やって、食事が済むと二人とも一気に眠りの世界へと誘われた。
ところで馬籠交番のおまわりさん、数年前に訪ねた時と同じ方でした。
2011/02/27(日)
【落合宿~中津川宿】4キロ
腰が痛くて朝6時には目が覚めていた。昨日買っていたパンで朝食を摂り、馬籠に向けて出発。
昨日のバス停には7時半ごろに到着したが、車を置いておく場所を探す必要があった。宿場に入って行くと住民の方がいたので聞いてみる。『JAが日曜で休みだから、そこで良いよ』と教えてくれた。
中津川に到着した後にバスで車を回収に来たのだが、同じ事を考えた方がいたようで【なごやナンバー】の車が置いてあった。
JAから一旦バス停まで戻って、いよいよ本日分の歩きが始まった。常夜灯や本陣跡などが残る街並みだが、意外に古い建物は少ない感じがした。
路面はアスファルト舗装で、中山道を判別できるように何かの破片が埋め込まれている。
宿場を抜けるとR19を歩道橋で渡り、もう一度地下道をくぐるように横断する。
舗装面と案内板で中山道は分かりやすくなっている。与坂の登りにかかるが、これが意外にきつい。振り返ると落合宿方面を俯瞰する事ができた。
きつい与坂の登りで大汗をかいてしまった。登りきるとアンテナの大鉄塔が立っている。与坂の立場跡、子野の一里塚を過ぎると道のりも半分ほど終了か?
さらにもう一度19号を地下道でくぐる。この地下道には絵が掲げられている。夜などは人通りが無くなると不気味な地下道だと思うのだが、この絵で大分救われる感があった。
茶屋坂を下ると石段が現れ、ここには復元された高札場と常夜灯がある。ここからいよいよ中津川宿に入って行く。通りに沿って古い蔵造りなどが残っていて、宿場の雰囲気を大いに感じさせてくれた。
駅前通りを横断すると本陣方面だが、一旦駅に行く事にした。美濃路の良い地図がほしかった。駅前の観光案内所で聞くと3種類ほど出してくれたが、あまり効果的な地図ではなかった。
バスの時間は9時5分に馬籠行きがあり、このバスで落合宿に戻れば効率的で利用する事に。妻が待っているアピタの所まで戻り、車を回収する事を伝えて再び駅に戻った。バスの出発時間まで5分しかなかったので、重いザックを背負って駅まで走る。何とかバスに間に合った。
【中津川宿~大井宿】10キロ
車をアピタの駐車場に置かせていただいて、再び大井宿目指して歩く。中津川はしっかり街並みが保存されている。
中山道歴史資料館でも地図を聞いてみたが、やはり望んでいるような地図は手に入れる事ができなかった。私自身の手で歴史的な事実確認はしていないが、桂小五郎の隠れ家と言うのがあった。桂小五郎というと京都を連想しがちだが、こちらにも出没したようだ。
本陣跡などが残る街並みは結構本格的な雰囲気を感じさせてくれる。さらに枡形まで進むと卯建がある街並みが残されていて、タイムスリップしたような感覚に陥る。
駒場村の高札場、石屋坂、双頭道祖神など歴史的なものが続く。
上宿の一里塚を過ぎると休憩所があり、ここにはトイレもあったので利用する。このあたりの集落には水路が配置されていて、水のある生活が何か清潔感を漂わせている気がした。
何度目かの19号との合流だか、この付近では中山道が一部途切れているようだ。インターチェンジの脇を通り抜けるが、歩道が無い部分があり注意が必要だ。
国道と分かれると千旦林地区で、ここで妻が電柱にあるパン屋の看板を見つけた。きょろきょろ探していた妻が奥まった住宅地の中にあるパン屋を見つけた。昼食用として1.500円分ほど買った。この後美乃坂本の駅前で口に入れるまで、袋に入れて持って歩いていた。肝心のパンは我が家の味ではなかったし、空洞が多くて技術的にも・・・かな。
千旦林地区も赴きのある集落だった。畑の真ん中に常夜灯が残っているのは、何か不思議な感覚だ。なぜ畑の真ん中なのか・・・道の位置が違ったのだろうか?
如何にも中山道の雰囲気が残されている区間という感じがする。
三ッ塚の一里塚を過ぎると美濃坂本駅も近くなる。お昼になり帰りの時間も気になるので、今日はこの辺で終わりにする事に。坂本の立場跡で駅に向かって進行方向を変えた。ここから駅までは1キロ近く距離が残されていた。駅まではかなりの下りだが、昨日落合の石畳の下りで痛みで苦しんだ妻も今日は大丈夫だった。
駅に到着してダイヤを確認すると運がよく20分ほどで電車が来る。また私一人が中津川に戻って車を回収する事にした。駅からアピタに向かっていると、今川焼き風のお店があり衝動買いをしてしまう。温かいうちに妻に食べさせたくて・・・車を飛ばして美乃坂本駅に戻る。
駅前のJAの銀行の駐車場で、先ほど買って持って歩いていたパンで昼食とする。
昼食の後、中津川焼きとコーヒーで1時間ほどゆっくりし、帰宅の途に着いた。ところがうっかり岡谷ジャンクションで進路を間違えてしまう。結局諏訪湖で降りて白樺湖を回って帰る事になり、予定の時間を大幅に上回ってしまった。
2011/04/30(日) JR美乃坂本駅から大井宿へ
昨日は夕方4時に埼玉を出発し、8時半ごろに中央高速道座光寺PAで夕食を摂って眠る。そして朝5時に起きて食事を摂り、7時前に再び中央高速を走った。坂本駅には7時半になっていた。
駅前のJAの駐車場に車を停めて出発。JAマーケットの方がすでに仕事をしていて、あまりに早くから車を停めたのでジロッと睨みつけられてしまった。私にやましい気持ちがあったからかもしれない。
坂本の立場跡・・・が今日の出発点だったから、先に妻とザックをここに降ろしてから車で駅に向かい、駐車して700メートルの距離を戻る。
立場に戻るとカメラを忘れた事に気が付いたが、再び歩いて1.400㍍を往復する気にはならず、携帯のカメラ機能を使う事にした。7時45分出発。
大井宿まで4キロから5キロだと思ったので、9時の電車に間に合うように考えて歩く。この区間は特段目新しいものや、歴史的なものもそれほど感じられない。関戸の一里塚などが僅かな史跡だ。
前方にガードが見えてくると宿場は目前。このガードは【明智線】だ。高札場を過ぎると宿場内に入って行く。大井宿はむしろこの辺りから駅前通りまでの方が、古い趣を感じさせてくれる。枡形の様に何度か右に左に方向を変えて進み、橋の手前で直進してきた道と再び一緒になる。大きく迂回して進んでいるのだ。枡形になっていたのだと思う。
本陣跡を過ぎて進むと橋に出会うが、この橋の欄干に工夫があった。広重の六十九次の風景が飾られている。
この橋を超えると駅前通りまで100㍍ほど。
橋を渡るとすぐの左手に大福屋さんがあり、出来立てを売っていたが朝だから我慢する。
駅前通りへ右折し恵那駅に、そして9時頃の電車で私一人が坂本に向かう。坂本には10分ほどで到着し、JAのマーケットの前を通ると従業員の方が朝礼の最中だった。先ほど睨まれていたので『買い物もしないのに駐車した』事はバレバレ。朝礼中だった事をこれ幸いと、車を回収して恵那市役所を目指した。
さて、車は・・・大型店舗のバローが、10時前なのに駐車場はすでに開いていたので置かせていただいた。勝手に置いたのだが・・・この後3日間で1万円以上買い物をしたので、お許しください。中部地方ではどこへ行ってもバローが目立ち、イオンやヨーカドーが多い関東とは違う。ちなみに【バローをの赤い看板】を今後もずいぶん目印に活用した。
【大井宿~大湫宿】14キロ
車をバローの駐車場に停めると妻の待つ恵那駅に向かう。落ち合うと再び中山道に戻ってスタート。商店街の中に妻が和菓子屋さんを見つけた。どうしても大福を食べたかったらしく2個だけ買ったが、ここのご主人が全く無愛想で・・・先ほどのお店で買わなかったことを反省した。
恵那インターが見えそうなところで、R19を横断。左手に【西行の硯水公園】を見ると右手に折れ、JR踏切を渡る。
ここからは一気にのどかな風景が展開する区間であり、街道歩きの醍醐味が楽しめる区間だ。
田んぼの中を進むと頭上を高速道が見えてきて、そしてこれをくぐるといよいよ十三峠の登りだ。十三峠・・・とは単に名前と思っていたが、実際に13の峠がありそれの総称だ。いいや、むしろ・・・後で分かったのだが【十三峠と隠れの七つ】と言って、実際には20以上の峠があり、中山道でも有数の難所だった。
きれいな石畳の道の途中には休憩所があったが、昼にはまだ早いので先に進む。西行坂を登りきると一里塚があり、近くには再び休憩所とトイレがあったのでここでコーヒータイムとする。お湯の分が軽くなるだけでも私は大助かりだ。
一里塚付近は遊歩道が整備されていて、R19やJR方向を俯瞰する事になるが、この風景は絶景だ。遅い山桜とツツジが見事に咲き誇り、そして吹き渡る風の心地よさは最高の休息ポイントだった。
舗装されず往時の街道の雰囲気が残されたこの区間は、文化庁により【歴史の道整備区間】に指定されている。
名前の由来がよく分からないが右手に【姫御殿跡】、左手に首なし地蔵を見ながら今度は下っていく。
登りは【乱れ坂】と呼ばれるほどの坂で、解説板を読むとあまりの厳しさに大名行列がみだれ、旅人の息が乱れ女性裾も乱れた・・・と書かれている。
坂を下りきった場所は【乱れ橋】で、ものすごい暴れ川だったそうだ。飛脚たちが出資し合って橋を架け、一時有料橋だったこともあるそうだ。
依然として往時のままの幅員・未舗装の道が保存されている。十三峠の核心部でもあり、歩きごたえのある区間だ。
紅坂の一里塚を過ぎて下っていくと【佐倉宗五郎】の小さな社がある。
一旦人家のある場所に出る。峠道に比べると大きな通りを横断し、橋を渡って左折し川に沿って進むと変則Y字路に出た。これを右手に入って行くと深萱立て場跡が見えくる。Y字路の角にはトイレがあり、長いコースなので助かる。
深萱立て場を過ぎると再び登りになり、今日はご夫婦で歩いている二組が前後しながら進んでいる。この峠に差し掛かってからポツリポツリだった雨は、ザーと音を立てて落ち始めた。雨具を着けると雨が小降りになるという、いやらしい状況が続く。途中の休憩所で雨宿りのついでに昼食とした。この間に二組のご夫婦が抜いていった。
それでも木立が雨をしのぐ傘の役目を果たしてくれていて、激しく濡れる事はなかった。
【炭焼き立て場】という珍しい名称の立て場の説明板があったが、その近くにきれいな湧き水が出ていた。きっと美味しいお茶を容れてくれた事だろう。
権現山の一里塚は江戸へちょうど九十里の一里塚だそうだ。途中雨はますます激しくなり、民家の物置を借りて雨具を着けて進む。
大湫宿が見えてきた。日本橋から数えて四十七番目の宿は、現在JRの路線から外れている事もあって開発の手から逃れて、ひっそりとたたずむ宿場の雰囲気をしっかり残していた。
街並みに入っていくと右手に学校があり、そこが本陣だったらしい。そして左に折れると一転、街並みはタイムスリップしたような雰囲気を醸し出す。50㍍ほど進むと左手に屋根の付いた休憩所があり、トイレも併設されているので休憩には最適だ。追いつ追われつのご夫婦が前を歩いていた。また若い女性が二人、東海自然遊歩道を歩いてきてここで休んでいた。
10分ほど休み・・・結局これが失敗だったが・・・自転車に乗って中央本線釜戸駅を目指した。あわよくばバスがあれば・・・と欲があったが当然バスはなかった。
ところが辛いと考えていた自転車は駅までほとんど急な下りで、自分でペダルを踏む必要がなかった。スピードを出しすぎて転んではつまらない・・・とのんびり楽しみながら下って行く。そして駅に到着し自転車に鍵をかけてホームに出ると・・・なんと、電車のドアが鼻の先で閉じてしまう。宿場で休んだ時間を1分縮めていたら・・・と悔やまれてならなかった。30分ほど次の電車を待ち、さらに恵那まで15分ほどかかって到着した。
大湫宿で妻を拾ってから釜戸駅で自転車を回収。そして買い物と思って周りを見回しましたが、ここには何もありそうにない。近所の主婦に聞くと瑞浪市のR19沿いに、バローがあるというので向かう。
今晩の泊場と夕食の買い出しをしながら地元の方に聞くと、【道の駅らっせいみさと】を教えてもらい向かった。明日出発する大湫にも近く、夜も静かに過ごせる絶好の道の駅だった。