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親友

リタイヤ生活

岩手での葬儀に参列してとんぼ返りで帰って来ました。

岩手に向かう途中電話が入っていたのに気が付かず、翌朝電話すると『遠くからわざわざ来なくてもいい』という電話でした。でも既に宮城まで走行っていました。

会館に到着して入っていくと、友は弔問客を迎えていました。そして私を見るなり胸がいっぱいになったのか、涙ぐんで私を迎えました。思わず私も・・・。

式は粛々と進み最後に喪主のお礼の言葉になりました。今年の8月で100歳を迎えるまで、家族みんなで支えようと頑張ったが、叶えてあげる事が出来なかった・・・と万感の思いが胸に迫って言葉に詰まるのでした。

大正4年生まれの私の父とは同級生。同級生が町内に5人残っていた時、毎月近くのホテルで食事会をして『みんなで百歳を迎えよう』と誓い合うのでした。

私の父は7年前93歳で逝きました。

百歳の親を逝かせて涙を流せる男・・・って凄いと思いました。家族みんなで支えて・・・と彼は言いましたが、実際は彼が一人で下の世話までやっていたことを私は知っています。

昨年私の母が亡くなったとき、釜石の叔母が食事を御馳走すると言うので彼も呼んだのでした。そして食事中に彼の姉から電話が入ったのです。私と食事をするのにも、姉に付き添いを頼まなければならない状況でした。

更にその電話は『粗相をしたからどうすればいいか?』との内容。彼は『戻ってから俺がやるからそのままでいい』と答えてました。

彼のようにそこまでしてこそ、涙を流せるのだと私は気づきました。私には父にも母にもそこまでした経験もありませんし、むしろ心のどこかで解放されてホッとした部分が無かったか・・・。

参列者を見送りに出ていた前を会葬者が会館を後にします。その時、痴呆だと言う彼の母も車いすで並んでました。

私は思わずかけより手を握って『判るかな、〇夫だよ』と言いました。何度もご飯を食べさせてくれたりして、家族のように接してくれた手です。

車いすを押していた彼の弟は『無理無理!』と。しかし彼は『判る判る。〇△屋(我が家の屋号)の〇夫、俺の親友の〇夫が奥さんとわざわざ埼玉から来てくれた』。

何とそしたらお母さんが『〇夫だってか? 昔の面影が無いな』って。私を覚えていたのか、それとも誰かとの勘違いなのか。

そんなことはどうでもいいんです。20年以上も彼の家を訪ねる事も出来なかったのですから、百歳に近い老人が解らなくて当たり前です。

問題はそれではなく・・・彼の『・・・俺の親友の・・・』という言葉です。実に数十年ぶりに聞いた言葉でした。

中学、高校・・・大学と就職に道が分かれても、ずーっと一緒でした。お互いがお互いしか居ないと思えたほどの間柄。

それがある日を境に心はすれ違いました。彼の心にどんな思いが潜んでいたのか、知る由もありません。

がっ、考えられるのは彼の離婚に、私たちが関係したと思われていたのかもしれません。

誤解なら溶けない誤解は無いはずと思いながらも、それとも私たちが気づかないうちに彼を傷つけたのか?

我が家の葬儀・法要などで何度も会うのに、昔とは違った感覚で接する二人。

それが今回・・・親友の・・・となった事を戸惑いながらずーっと考えています。

傷つけたのなら許されたのでしょうか? 誤解なら解けたのでしょうか?

実はつい先日、彼と判りあえた時に飲もうと思って取って置いた特別なワイン・・・もうこのままのしっくりしない関係だろうと思って、あけて飲んでしまったのでした。取っておくべきでした。

解りあえない寂しさに、ずっと耐えてきたから・・・私にとって彼の言葉重く重く圧し掛かる存在なのです。

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