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中山道いろいろ旅 武州路2【桶川宿~本庄宿】

武州路2【桶川宿~本庄宿】

2007/02/04(日)

【桶川宿~鴻巣宿】7キロ
桶川宿下の木戸跡

  桶川の本陣からスタート。町並みの所々に古い建物が点在。往時の旅人も下の木戸跡を過ぎて北本宿を目指したのだろう。

北本市に入る
北本宿の説明板

  北本市に入ると二ツ家。この地名も何か当時とのつながりが感じられる。

  北本宿の説明板があり、北本の【元宿】という名前は鴻巣に移された宿場の名残のようだ。

多門寺
北本駅

  多門寺は由緒あるお寺のようで、立派な本堂だ。そこから左折して細い道に入り、2度ほど門を右左折するとJR北本駅の前に出る。このまま現在の中山道から離れて進み、突き当たった踏み切りを渡る。

原馬室一里塚
線路側から望む一里塚
かつてはこれが中山道

  踏み切りを渡り線路に沿って100メートルも進むと、左手の小高い場所に【原馬室の一里塚】がある。どうも現在は民地のようで立ち入るのは注意が必要だ。

  このまま線路に沿って進んでもいいのだが、戻って踏み切りを越え浅間神社の処から再び現在の中山道に戻る。そして鴻巣を目指す。

鴻巣宿に入る

  写真の標柱のほかに【鴻巣宿】を表示したものもあった。

古い建物が残る

  特段のものはこの区間にはない。ポツンポツンと古い建物もあるが、連続性が無く街並みとまでは言えない。人形を商う老舗が多くある。元々は岩槻よりこちらが本場だったそうだ。

鴻巣宿の碑(?)

  本陣はどう探しても、誰に聞いても解らなかった。仕方がないので駅前の交番まで行って聞きいた。ところが若いお巡りさんは『本陣』という意味さえ知らず・・・大変な時代になってしまったと感じる。最も私も興味を持ったのはつい最近だが・・・。本署に電話して聞いてくれて公民館の庭の片隅に建つ会館の建設記念碑の中に、本陣の下りが僅かに記載されていると判った。ここまでの中で確り本陣を史跡や中山道の歴史として、保存しようという気概が全く感じられない。蕨宿のみが何とか表示がなされていた。上州路も信濃路も木曽路も・・・しっかり保存しようという意識が感じられるのに、埼玉県はどうした事だろうか。

【鴻巣宿~吹上間の宿~熊谷宿】16キロ  《2008/12/29に歩いた写真・記録もプラスしています》
鴻巣市街
古い街並み・土蔵作りの商家

  買ってから塩尻宿からの歩きや碓氷峠越えなどで履き慣らしたはずのウオーキングシューズが、早くも擦れて痛むのはどうしてだろう。確認するとアキレス腱に近い位置の皮膚が擦り剥けていた。いつも用意していたカットバンを今日は完全に失念していた。擦れるなら碓氷峠でなっていたはずだと思うと、どうしても納得できない。鴻巣駅から200メートルほど歩いて、やっと旧道にある薬屋さんにたどり着いた。

  一番安い物でも200円も取られてしまい・・・いつも持って歩いているのに・・・肝腎な時に忘れている。

  この出費は全く無駄な出費だ。薬屋さんで椅子を借り確り手当てをして出発した。靴下の弛みと紐の締め方が悪かったようだ。お陰で痛みはほとんど消えた。

鴻神社
加美の別れを左に

  足が心配だった事と長距離の挑戦になる事から、意識してゆっくりペースで進んでいたはずが、せっかちな性分の私は知らず知らずペースは速まっていた。

  僅かに残る土蔵造り・神社などを写真に撮りながらも、今日は地図と首っ引き。前回解らずに国道方向に進んだ加美の交差点に着き、今日は確り確認して左にコースを取った。

箕田観音堂
中宿橋は北鴻巣駅近く

  箕田地区の変化の無い歩きが続き、少し退屈し始めると観音堂が現れ、さらに進んで中宿橋に出会うと北鴻巣駅は間近。ここは赤見台という大きな団地があり、急激に人口が増加している地域で、この少子化の時代にクラスが増えている学校は、埼玉でも珍しいと思う。

箕田追分を左に
江戸から十五里の碑

  中宿橋からほんの僅かで箕田の追分に到着、鴻巣の本陣からは約1里の距離だ。ここには焼き物の椅子が設置されていて休憩所になっていたが、休まずに地蔵堂と追分の説明板を写真に写して吹上目指す。

  【江戸から15里・前砂村】という表示の石標が建っている。そして説明には【英泉の《吹上富士遠望》はこの辺からの風景を描いたもの】との説明がある。そこから100メートルほどで一里塚の朽ちかけた白い標柱が建っていたが、ペンキが剥がれる等かなり痛んでいて判読が出来ない状態だった。

高い建物は消防学校の訓練施設
吹上駅は右へ

  前砂あたりは少し家並みが途切れていて眺望が開ける。右手を見ると線路越しに県の消防学校の棟が望める。消防学校が視野から消え、現れた分れの案内板は右手が吹上駅だと教えてくれている。

親切な案内で線路を横断
吹上市街の古家

  何処で線路を横断するのだろうと疑問が強くなってくる頃に、親切な案内があった。お世辞にも立派だ とか目立つとは言えないが、本来行政がやるべき仕事を代行してくれているのがありがたい。東電にとっては迷惑な話かもしれないが、寛容の精神を持って見過ごしてもらいたい。だって助かっている方が沢山居るのだから。

  吹上市街で再び旧17号国道と合流するが、ここからは前回一部区間を歩いている。

  僅かに残る古い建物などを写しながらも、そろそろ昼が気になる。食堂を探しながら進んだが、御多分にもれずここでもコンビニでしか食べ物を手に入れる事は出来なかった。食堂といえるものは無く、何となく通り過ぎてしまう。これでこのまま荒川土手に向かえばコンビニさえ怪しく、熊谷まで食事は摂れないかも・・・と覚悟する。

  ポケットの中のオレオだけが頼みの綱となる。

本町の交差点にも手製の案内
吹上神社

  何枚目かの案内板で本町から吹上神社に向かう。このカーブに喫茶店が一軒あって食事が出来そうだったが ・・・・ピラフやサンドでは嫌だな~~と思い再び通り過ぎる。

  吹上神社では氏子の方々が正月の飾り付けを手分けしてやっていた。

吹上間の宿の標柱
陸橋の上から吹上を振り返る
線路の左に堤に続く中山道

  道は陸橋で線路を越えて熊谷堤へと向かうが、この陸橋の下に間の宿の説明板が設置されている。

  吹上間の宿の表示が何か唐突に感じるほど、埼玉県内は中山道ロマンを軽視しているように感じる。

  先程の電柱案内が示す通りだ。線路を越えた路は住宅街へと進む。

権八延命地蔵堂手前にあるトイレ
堤の上からは雪の峰々が

  長~い熊谷堤ではトイレも心配・・・と思っていると、運がいい事にトイレがあった。ここで中山道を歩いている人と知り合う。後でメール交換でわかったのだが、小田原の【長さん】でした。ここでアドレスをいただいてから暫く一緒に進む事になる。トイレで知り合ったので【臭い仲】って・・・古くてすみません。

  長さんと前後しながら堤の上を進む。山の名前を教えてあげたりできるほど、今日は白い峰々が太陽の光を浴びて輝いていた。風も無く私はセーターもブルゾンも抱えて歩いていた。

  途中で一箇所間違えて堤から下ってしまったが、川のそばのお宅で聞いて戻る事が出来た。

久下一里塚(?)と小田原の長さん
久下神社

  ひょっとしたら一里塚を見落としたかもしれない。あるいは写真の木立の場所がそうかも?

  二人で話しながら堤防を歩くが、本当に気持ちの良い歩き。そして久下神社の手前で休みを入れるという長さんと分かれて私は先に進む。少し迷ったが堤防を降りて行くと、またまた運良く目印になる久下神社の前でした。ここで再び靴を脱いでカットバンを貼り替える。

  ちょうど13時でここまで3時間が過ぎていたが、まだ一回も休憩を取っていなかった。下久下のバス停近くに食堂があったので入る。タンメンしかないと言うのでそれを頼んだが、今日は暑い日だったからできれば丼物が・・・。

  客が切れると旦那が出てきて私の中山道地図に気付き話し込む。奥さんも話しに入ってきて ・・・話好きの御夫婦のようだ。京都まで行く事を嬉しそうに聞いていた。

  この地区は昔、川渡しの人足達 が宿泊した場所なのだ。だから『貧しい地区で大きな屋敷が無いのだ』と教えてくれた。さらに久下橋の上からの眺望を勧めてくれた。

○○百景・・・らしい久下橋からの眺め
今日は富士山が見えない

  出発は13時40分になっていた。長さんには追い越された事だろう。食堂のオヤジがお勧めの久下橋の上に上って見た。何とか百景だから・・・と教えてくれたのだが、残念な事に富士は見えなかった。

  この時、堤防の上を行くナカラー(中山道を行く人・・・私の造語)が一人居たが、彼だったかもしれない。

下久下付近
みかりや(茶屋)跡

  下久下から一旦堤防に戻り昔の茶屋跡《みかりや》に行って見た。これは英泉の【熊谷宿 八丁堤ノ景】にも登場した人気の茶屋だそうだ。しかし現在は一般のお宅になっていて、塀の外から写真を写すだけしか出来ない。

  東竹院というお寺の看板があったのでこれも寄って見た。立派な本殿があったが門が鍵締めで、普段は住職の居ないお寺さんだと思う。帰ってから調べると深谷城主上杉憲賢が建立し、久下郷の領主だった久下一族が眠る寺院だった。

八丁一里塚 お社の右に黄色く見えるトイレ
熊谷駅をこんな位置で始めて

  もうほとんど熊谷駅という所まで来た。曙公園に八丁の一里塚がある。小さなお社の右側に黄色く見えているのが簡易トイレだが、念のために使わせていただいた。簡易トイレなので清潔さが満点という訳にはいかない。

  長い区間そうした施設が無かったので、承知しておくと役に立つかもしれ無い。

  駅の脇の踏切を渡りいよいよ国道と再び出会う。国道に出会うと歩いていなかった区間を終了した事になるので、痛かった膝も何となく元気を取り戻したような気がする。

熊谷高札場
熊谷本陣跡

  前回は大体理解していたはずの熊谷本陣跡が見つからず、宝くじ売り場の女性の方に聞くも全く解っていない。

  本屋さんに聞くとそこから僅かに10メートルで、聞いた事が恥ずかしいほどで、今回は高札場跡も確認し写真を写しす。

  時計を見るとまだ15時にもなっていない。このまま籠原まで行ってみようか・・・と考えが頭を支配していた。足には豆が出来て膝はパニック状態にも拘らず、何故か無性に歩きたい気分だった。
 

2007/02/10(土)

【熊谷宿~深谷宿】11キロ 《2008/12/29の籠原駅までの記録・写真もプラスしています》
デパートの中を通る
花に囲まれた碑
本石付近

  熊谷本陣をスタート。信号で路を横断すると熊谷寺の参道であり八木橋デパートになる。何も買わなくてもデパートの売り場を歩かなければ、中山道の完歩にはならない。売り子さんに聞くと『この通路を歩いてください』とショーケースの前を指差して教えてくれた。通り抜けて振り返ると、花屋さんとの境界に石碑が建っていた。そのまま通りを横断し商店街を石原へと向う。この道は石原まで国道と平行して進み、慈恵病院のところで国道に合流する。

左に折れると秩父道
植木バス停を過ぎたら左に

  旧の国道を進むと秩父道との分岐になる。ここに石標があるというので寄って見た。秩父霊場巡 りの一番札所への案内になっているようだが、難しくて読む事ができない。

  警察署を過ぎ更に植木バス停を過ぎたら斜め左に入る。

セコムから派遣の猫
新島の一里塚
忍領の石標

  セコムから派遣されて建物の裏口をガードしている猫が居て『セコムしてますか?』と話しかけてくる。

  と思ったが・・・そんなはずは無く、単に【日向ぼっこ】しているだけだ。

  直ぐに新島の一里塚と「従是南忍領」(これより南、忍領)の石標が建っている。熊谷は忍藩の領地だったから、他藩との争いを避けるために忍城主が建てた。

農業試験場で17号に再び出会う
17号を横断

  農業試験場の脇を抜け17号に戻った後、バイパスが交差する手前を右に入って行く。籠原駅の入り口が渋滞している時は、このあたりまでノロノロしか進まない状態で、いつも抜け道に使っていた。

  国道を横断した場所はかつて【玉井窪川越場・・・たまいくぼかわこしば】があった場所。現在は川幅が狭くて想像できないが、記録にも確り『人足にて渡す』とあるそうだ。

新堀付近の趣きあるお宅

  籠原駅入り口までは変化が無い通りの歩き。何か面白いものが無いかなと地図を見ると、明治天皇の行在所があると書いてある。行きつ戻りつ10分ほど探しましたが、見つからなかった。

  歩道の設置工事が行われていたので、どこかに移設されたのかもしれない。

市文化財 国済寺三門
鐘楼と多宝塔

  数キロに渡って楽しむモノがない歩きだが、少し寄り道をする事にする。予てから気になっていた国済寺だ。

  三門が市の文化財に指定され、本堂・鐘楼なども立派な造り。1390年に上杉憲英によって創建され、当時は8万坪の広さを誇ったそうだ。中山道より17国道からの方が近く、見学した後に中山道戻るのが躊躇される。

丸坊主のポプラ並木
旧深谷女子高

  中山道に戻るとほどなく樹齢数百年の並木があり、妻に確認するとポプラだとの事。なぜ妻が知っているかというと、目の前にある第一高校の前身は深谷女子高と言い妻の母校なのだ。ポプラは枝が綺麗に落とされて、何か痛々しく感じてしまう。
       
  この信号で17号と交差し、そのまま市街に入って行く。

街並み
うだつのあるレンガ造り

  古い街並みを探しながら進むと、案内書などに取り上げられている建物が点在している。レンガ造りでうだつが付けられた建物など、日本レンガの工場があった・・・いかにも深谷・・・だ。富岡製糸のレンガもここで随分焼かれたようだ。

深谷宿 東常夜燈
深谷(飯島)本陣跡 現在印刷屋

  そして東の常夜燈が直ぐに現れる。更に街並みを見ながら進むが、1本裏の路地にはまだまだ古いものも残っていた。そのまま駅入り口を過ぎると右手の印刷屋さんのドアの脇に【飯島本陣】の看板があった。

  説明板には《上段の間なども現存している》と書かれていた。ワンちゃんが警戒して大声で鳴いていたので、迷惑をかけては申し訳なく早々に退散した。

【深谷宿~本庄宿】11キロ 《2007/03/30 岡部から本庄間の正しいルートを終了》
深谷宿 西の常夜燈と呑竜様の鐘
七ツ桜 酒蔵か?

  本陣を出ると数百メートルで西の常夜燈。向かい側に呑竜様の赤く塗られた鐘楼があり目印になりますが、無かったとしても真正面からぶつかるので見落とす事は無い。

  この先も見るべき建物が何軒かある。造り酒屋の蔵造も雰囲気があり、高いレンガの煙突も深谷ならでは。

翁最中の糸屋 客が行列して
酒蔵【菊泉】も中山道の風物詩

  おっと・・・すごい人の列、道路の両脇にはルールを無視して多くの車が縦列で駐車されている。そして次から次に車の列は伸びていく。人気のお店は【翁最中】の糸屋製菓、よくお使い物で頂く事があるが、最中の甘さは・・・私は苦手。菊泉の建物・煙突も是非見てもらいたい。

17号を突っ切って進む
17号とまたまた合流

  17号を走行する車が見えてきた。宿根の信号で17号をそのまま突っ切って進む。目印としては角に瀧宮神社がある。国道と並行して一本裏の道を300メートルほど進んで17号に戻ると、岡部駅入り口の手前まで漬物屋さんの看板を見ながら国道を進む。岡部は漬物が有名で、多くの漬物屋がある。

17号と分かれて右に

  そして岡部駅入り口の手前で利根川方向・右手に進む。目印としては古いバスが分岐に置かれている。

  昔はそのバスでラーメン屋さんが営業していた。現在はもう少し奥にも一台バスがあり、飲み屋さんが営業しているようだ。2台のバスがポイント。

産泰神社
深谷バイパスと出会う

  17号と深谷バイパスの間を進んでいる事になる。丁度、産泰神社でお昼のサイレンだった。

  この角を右に折れてバイパスに向かうと大きな道の駅があり、食事のバリエーションも豊富。

  近隣では【作った人が判る安全で新鮮な野菜】がある事で知られている。しかし中山道は道の駅方向に右折せず、直進で百庚申の案内板に沿って進む。

  道は徐々に右方向に下って行き、バイパスに出会う。

昼ごはん
北風を除けたハウス

  今日は風が冷たく汗をかいた身体にはきついものがあり、休みを取らなかったのはそのせいでもあった。

  バイパスを横断するとビニールハウスがあり、上手い具合に北風を遮ってくれている。ここの陽だまりで休憩を取る事にした。今日のメニューはオレオ・カントリーマーム・ハラダのラスクそれにミカン。

滝岡橋と赤城山の遠望
たまに見かける案内板

  15分の休憩で出発し小山川を滝岡橋で越えた。橋の上から望むと妙義・榛名・小野子三山・子持山などが青空に綺麗に映えていたが、赤城だけが山頂に雲がかかり雪が降っているように見えた。

  休んだせいか体が冷え切っていたので、再び急ぎ足で歩く事にする。

  道は元小山川に沿って本庄を目指す。ところどころに案内板が見られるようになる。

豊山派の宝珠寺の三門

  藤田地区に入る。右手に立派な三門が見えたので、寄って見る事にした。

  この後キョロキョロあれこれ興味深く探しながら進むが、牧西(もくさい)・傍示堂(ほうじどう)と見るべきモノはあまり無い。

17号を横断すると御登坂
本庄市街の中山道商店街

  いよいよ今日の最後の17号の横断。信号の向こう側は【御登坂】で、500メートル程をダラダラと上る。

  坂を登りきると右手に本庄東中、さらに進んで通称10間道路(じゅっけん道路)を横切り、駅入り口の信号へと続く。

本庄本陣付近
移設した田村本陣の門
旧警察署 資料館

  本庄宿は写真の酒屋さんの場所が本陣だった。今はそこには何もなく、資料館の前に門が移築・保存されている。

  初めて資料館の中に入って見たがパンフレットが置いてあるだけだった。NHKで中山道が放送されたので来場者が増えると思うよ・・・と教えてあげる。

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