26-1. 燧ケ岳
平田影郎
今年は未だに1時間や2時間で往復できるような登山しかしておらず、少し歯ごたえのある山をやりたい気分になっていた。
幸い土曜出勤の振り替えで8月9日・10日・11日と三連休だったから、このうちの二日を使って縦走か二山連続登頂を考えていた。
数年先まで計画してあるリストがある。縦走は危険が伴うので一人で行くのは止めている。先生に声をかけると図面書きで手が抜けないと言うので、移動距離が少なくて連続登頂できるのは?・・・と探すと、リストの中では一番後ろに尾瀬の燧ヶ岳と会津駒。登山口同士の距離は20㌔もない。
下山後すぐ次の登山口に移動できるという寸法だ。
一般的には尾瀬ヶ原からのコースだが、檜枝岐からでないと次の日が大変になる。8月9日早朝に出発。谷川で焼酎のペットボトル(4㍑)10本に水を満たした。2日間の炊事用と家に持ち帰って飲用水にするためだ。小出から銀山平そして奥銀山と車を走らせ、燧ヶ岳の登山口御池(おいけ)に着いた。
明るくなるのを待って出発した。ほんの数百メートル進んで御池田代(田代=湿原)にそそぐ最初の沢を越えると、いきなり目の前に黒いものが飛び出した。熊である。おまけに子熊まで。“ドキッとして血も凍るよう”と言いたいが・・・逆にそれほど恐怖感を感じる余裕が無かったのだろう。
「とうとうやってしまったか」とっ、あきらめともつかない、あるいは『やってやろうじゃないか』と言う気持ちなのか。
素直に言えば「あ~あ、やっちゃった」というか、なんとも説明できない気持ち・・・あるいは覚えていないの?。
少しの間私と目を合わしていた熊は突然・・・プイッと顔を背けると田代側の林の中に消えていった。
子熊も後を追うが倒木を跨ごうとして足が地面につかず・・・慌てるもんだからますます倒木の上でまごまごして・・・やっと消えていった。
身体から力がフーッと地面に落ちていった。あっけなく消えてくれて本当に助かった。バッタリ出会ったのは初めての経験である。“ナイフをだす”だの“死んだふり”など頭に一切うかばず、ただ真っ白になって立っていただけかもしれない。
とにかく子熊が倒木の上でまごまごしているお尻だけが脳裏に焼き付いて離れない。
もう少しで先生の願いどおりになるところであった。
戻って御池ロッジとバスの運転手に報告した。その間に何人かは登山道を行ってくれたはずだから、万が一熊が腹を空かせていてもその人たちを食べてもらいたい。でも熊から見たら私のほうが美味そうに見えるに違いない。
「どうか好き嫌いしないで順番に食べますように・・・どうか満腹でありますように・・」
おっかなビックリ、私もあとを追った。(実はこの後大変であった。帰りにすれ違う人が「熊がでたそうですよ」と例外なく教えてくれる。
知ってるよ・・出会った本人なんだから)
“燧はきびしい”は噂どおりでやはり歩きにくい道であった。木の根や岩がじゃまをするように横たわり、しかも一段
一段が歩幅より高くなっている。
最初の登りは広沢田代までの1時間弱。今年初めての厳しさにヒイヒイ言いながら何とか登り切る。田代内は平坦な木道を気持ちよく歩くだけ。平日のせいか前にも後ろにも人影を見ることができない。静かな山歩きだ。
木道にザックを下ろして座り込み、ゆったりとタバコを吸っていると・・・いきなり木道の上を何かが私をめがけて走ってきて「ウワァーッ、何だーっ」 驚いて立ち上がろうとすると・・・それは私が座っているのとは別のもう一本の木道を、疾風のごとく背中をすり抜けていった。振り返って走り去った方向に目を遣るとウサギである。
「びっくりしたなー もう」 熊に会っているもんだから臆病になってしまっている。
「やれやれ 何なんだ いったい」 ホッとしてまたタバコを吸い始めた。とっ・・・左目の視野のすみの方で何かが動いているような気がした。みると金色の体毛に覆われた何かがリズミカルに走って木道の上に飛び乗った。
「何だろう、イタチかな? 色が違うからテンかな?」
ウサギが頂上側に逃げたと思いこんでいるのか向こうばかり見ていて、私のいることに気づいていない。とっさにカメラにおさめようと思いザックに手をかけると、置いていたストックが木道に落ちてしまった。
“コチーン”という音に驚いたその金色は振り返って私を認めると、木道から飛び降り草むらを一目散に逃げ出した。
「ザーンネーン!」とあきらめかけた。とその時、低木の林の手前で立ち止まった金色は背伸びして私を見ているではないか。何とも愛嬌のある姿だ。(尾瀬には“オコジョ”が生息しているとパンフレットに書いてあった。)
熊沢田代まで更に1時間の登り、また田代で平坦な木道を歩き・・・いよいよ最後の大登り。これがききしに勝る登りであった。
急勾配に加えガレ場で足が取られ、思うように足が地面をとらえてくれないのだ。一歩一歩本当にきつい登りになってしまい、頂上に着いたときにはバテバテの状態であった。
足を投げ出し岩に寄りかかって座っていると、疲れからか瞼が重くなりいつの間にか眠ってしまっていた。1時間以上も眠っていたようで、お陰で下山が遅くなり、もう少しで雨にやられるところであった。尾瀬では夕方雨になることが多いという。燧の湯に到着するころにはワイパーが間に合わない程の大雨になった。
「これじゃキャンプは無理か、晩メシはどうするかなー」考えながらの入浴となった。
村営の施設でまだ新しく、おまけに露天は脇を川が流れるまあまあのロケーションである。残念ながらかけ流しではなく泉質もアルカリ単純泉。しかし炭酸分が多いのかヌルヌル感があり、これがいい。
知り合いになった東京からキャンプに来ているという人が、舘岩村の湯の花温泉に入って帰るという。かなり知識もあり、かけ流しにこだわるこの人の言うことなら間違いなさそうだ。明日のお風呂は決まった。
休憩所でビールを飲みながら待っていると雨もあがった。これなら屋根がなくてもメシを作ることができる。
檜枝岐はキャンプ場以外でのキャンプが禁止で監視員が巡回するほどだ。めだたないところを探しまわってテニスコート脇の駐車場をみつけた。
雨の後で虫が少なく私にとっては快適な夜となった。一人でご飯を炊き、炊きあがるのを待つ間ビールを飲み、おかずは少し手をぬいて缶詰などが並び・・・厳しかった燧の疲れがゆったりとゆったりと足を伝わって地面にしみ込んでいくような時間が過ぎていった。