今日で15回目のあの日です。
思えば・・・いろいろな悲劇がありました。
2万人もの方が亡くなられ、いまだに2.000人を超える方が行方不明です。
そして数万人の方が故郷を奪われ、数十万の方が生活を奪われました。
多くの家畜たちが、避難区域の中で罪もないのに餓死しました。
あの日は何を取っても、うれしい話題は一つもありません。
でも悲しいことに、時間にはどんな悲劇も風化させてしまう怖さがあります。
被災された方々をはじめ、多くの方たちが次世代に伝える努力に力を注いでいますが、本当に頭が下がります。
何時までも忘れない・・・それは誰にでもできる力添えですから、今日もテレビ番組を観て・・・涙をこぼしていました。
それだけしかできませんけど、心は東北にあります。
そして兵庫にも熊本にも、さらには能登にも置いています。
振り返ってみれば・・・あの日私は会長の会社の事務室(マンションの一室)に居ました。
物凄い経験したことのない揺れに襲われ・・・壁にはクラックが走り、これで私の人生も終わりかも知れないと80%ほど思いました。
何パーセントという問題ではなくて、ほぼ❝ダメ❞だろう・・・と思ったのです。
揺れが収まっても・・・電車も動かず、大宮駅はパニックに陥った人々が群がって。
諦めて会社に泊めてもらおうと戻ったのでしたが・・・。
会長の会社の社員が熊谷方面に帰るので、熊谷まで送ってもらってそこから20キロほど歩いて帰宅。
まだまだ60歳の青二才でしたから出来たけど、今となれば途中でダウンしているかも。
一台の車に定員いっぱいの人が乗って、各方面に送らなければならなかったので自宅まで送ってもらうのは遠慮したのでした。
その時の社員が・・・今、私が可愛がっている会長の会社の社員で、その時以来の厚い親交が続いています。
また、家族では・・・その時はすでに離婚していた姉の元旦那さんが消息不明に。
別れた後とは言え私の甥と姪の父親ですから・・・ましてや私は実の兄より慕っていた義兄でした。
数週間後に生存が解ってホッとしたのでした。
避難所を転々とさせられて、連絡のしようもなかったようですが。
最も別れた元妻に知らせるべきと考えるのは難しいと思います。
波にのまれて流されようとしたとき、お巡りさんが手を伸ばして掴んでくれた・・・と後日談。
まさに急死に一生でしたが、多くの人が不幸に見舞われているのに手放しで喜べないような心情でした。
また、私の甥(姉の長男)ですが、テレビニュースで何度も流れているシーンに写っているトラックの運転手をしていました。
海から駆けあがってくる津波がビニールハウスを飲み込み、トラックに襲い掛かる・・・あのトラックです。
仮眠していましたが揺れで目を覚ますも、海が見えていなかったので津波までは想定できていませんでした。
数十分後にトラックは津波に飲み込まれたものの、奇跡的に陸に残されていて命は助かりました。
そこから岩手まで避難所を辿りながら帰り着いたのでした。
娘が仙台で生活していて、地震と津波と放射能に見舞われ・・・。
義兄しかり、父方の叔母も釜石に住んでいて、三陸を襲ったあの日は一生記憶から消えない日なのです。
犠牲になられた方々に哀悼の意を表します。合掌


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